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エキソニモとライダー・リップス:「ネット≒リアル」と「ネット↔リアル」

2014年にmakersのための情報発信メディア「DMM.make」でネット/メディアアート周辺の作家を数珠つなぎに紹介していく「インターネット・リアリティ・マッピング」という連載をしていました.今はサーバーすらなくなってしまったので,テキストを転載しました🛠

[インターネット リアリティ マッピング]


まずは,この画像[ryder-ripps.jpg]から見てもらいたいと思います.今回取り上げるアーティスト,ライダー・リップスの自撮りの画像です.彼は柔道着を着ています.リンクを飛んでもらうと,さらに画像があって,柔道着の背中には「Red Bull」のロゴがあって,脚の部分には「スポーツとしてのコンセプチャルアート」と書かれています.一体,柔道着を着たライダー・リップスは何をしようとしているのでしょうか.

ライダー・リップス=コンセプチャル・アーティスト

まずはライダー・リップスの簡単な紹介をしておきましょう.リップスは1986年生まれの28歳で,ニューヨークを拠点に活動しています.有名な作品・プロジェクトとして,画像でチャットをしていく「dump.fm」[404 File not found😱]や,閉鎖されたアメリカYahoo!のgeocitiesのアーカイブ「Internet Archaeology」[サーバーが見つかりません😱]などがあります.リップスはアーティスト活動と並行して,OKFocusというデジタルデザインの会社もやっています.彼は自分のことを「独立(ビジネスオーナー)のことを心配して,(技術,未来について)すぐうんざりしてしまうコンセプチュアル・アーティストだね」(MASSAGE 9, p.84)と言っています.

柔道着を着たリップスに戻りましょう.これは2013年に行なわれた「Hyper Current Living」というパフォーマンスの際のリップスの自撮りになります.「Hyper Current Living」は,リップスがRed Bullを飲みながら延々とアイデアをツイートしていくというパフォーマンスです.ツイートするだけなら,別に自分の身体をネット上に出す必要はないのですが,リップスはわざわざ柔道着をつくって,それを着て,自らの身体をネットに晒しながら,アイデアを練って,それをツイートしていきます.前回比較したJodiとエキソニモでは,Jodiが「遊ぶ身体」で,エキソニモで「消える身体」だったので,「スポーツ」という言葉を使うリップスはJodiに近いと言えるでしょう.

コンセプチャルアートとしてのスポーツ

でも,ここで言われている「スポーツ」は「コンセプチャルアートとしてのスポーツ」なんですね.この言葉はとても面白いところがあります.頭でっかちな感じがする「コンセプチャルアート」と身体性が強い「スポーツ」という普段隣り合うことがない言葉が組み合わせされているからです.リップスはこのギャップを際だたせるように柔道着を着ているし,身体を強く刺激するRed Bullを飲むわけです(企画のスポンサーということもありますが…).ここだけみている,どこか悪ふざけをしているだけのような感じも受けます.

リップスは「スポーツとしてのコンセプチャルアート」を結構まじめに言っていると思います.それは,このパフォーマンスがソーシャルメディアのなかの「アイデア」の流れを考えた「シリアス」なものだからです.リップスはこのパフォーマンスで,ツイートされる文字列が示すアイデアそのものをプロダクトに仕立てています.それを可能にするために,リップスはTwitterのタイムラインを「生産ライン」と見立てます.Red Bullを飲みながら,出来る限りのアイデアを練って,それをツイートしていき,それがリツートやファボラれる.その反響を直に感じて,リップスはさらにアイデアを練る.そのあいだに前にツイートしたアイデアはソーシャルメディアのストームのなかであっという間に消え去っていく.アイデアが生まれてはあっという間に消えていくような生産即消費といったような急な流れが「生産ライン」とされるわけです.

だから,このプロジェクトでは「生産ライン」を流れていく「140文字以内」のテキストが重要になるはずなのですが,そのアイデア自体は「子猫の涙でできたオンライン上の孤独な少女のための洗顔料」といった真面目なのかふざけているのかわからないものが多いです.そのうえ,リップスは柔道着をきているわけです.この「ユーモア」と「シリアス」のバランスがプロジェクトをコンセプチャルなものにしているのかもしれません.社会を憂いてそれを救うようなアイデアやアートワールドをうならせるようなアイデアばかりツイートしていたら,そのツイートのみが拡散して,そのソースに位置にするリップスの身体は忘れられてしまって「スポーツ」から離れてしまいます.ちょっとくだらないアイデアが何かの拍子で誰かのタイムラインにのっかり,それを見た人がちょっとした興味で「Hyper Current Living」を覗いてみると,柔道着を来た男の人がツイートしているのを見て,「何やってんだ,この人」という感じで見ていると,少しくだらないツイートがされて「この人なら納得」となって,そこで身体=スポーツとアイデアが結びつく.リップスはこのような絶妙なバランスを保ちながら延々と続けることで,そこに「スポーツとしてのコンセプチャルアート」を誕生させたといったら言いすぎでしょうか.

7年間のFacebookでのすべてのやりとりを公開

でもまだ,リップスが柔道着を着て,ネットに自分を映しながらパフォーマンスをする真の意味は掴めていないような気がします.ここでユーモアを超えたところにあるリップスのネットに対する感覚の根っこの部分を掴まないとエキソニモと対比ができないので,もうしばらく彼の作品を考えていきたいと思います.お付き合いください.

リップスのユーモアあふれる作品やプロジェクトの根本にあるものは何なのでしょうか.そのことを知るためのヒントが《Ryder Ripps's Facebook》(2011)[404 File not found😱]にあるように思われます.7年間のFacebookでのすべてのやりとりをダウンロードできるこの作品は,作品解説のかわりに付けられた複数のタグのひとつ「ファイルとしての自己」という言葉が示すように,Facebook上のリップスの7年間がすべて格納されているわけです.

7年間におけるFacebookの全記録というとてもパーソナルなものをパブリックアートにしてしまうという発想の大元にはプラバシーを問題視するといった使命感というよりも,「えええええー,そんなことするのー」というような驚きとプライバシーそのものへのユーモアを感じます.この作品が置かれたリゾームの「ダウンロード」プロジェクト[404 File not found😱]の解説はこのことをうまく説明してくれています.それは「誰かの過去,知りたいよね?」という好奇心を利用して,どんどんと流れていってしまって一向に振り返る機会を与えられないネットでの「過去」を振り返るための唯一の手段を《Ryder Ripps's Facebook》は提示しているというものです.なんでネットの記録が他の人の好奇心を煽るかというと,どこかにスキャンダラスなことが書かれているのではないかと多く人が考えるからです.確かに,《Ryder Ripps's Facebook》は少し見ただけだと,面白いエピソードでもないかなという「ゴシップ」感が強いものです.

延々とスクロールしつづけた先にある「ほぼリアル」

しかし,《Ryder Ripps's Facebook》を実際に「すべて」見てみると,その感想は全く異なるものになります.《Ryder Ripps's Facebook》には膨大な量のテキストと所々に挟まれるイメージがアーカイブされていますが,それらはもちろんリップスの7年間のすべてではありません.それは単に7年のあいだにリップスがFacebookというネットサービスに向けて1日24時間のうちの数分をかけて打ち込んだテキストやネット上でちょっと気になった画像や映像が集まったものにすぎないものです.それでも,MacBook Proのなめらかなトラックパッドの上で指を滑らせても滑らせても全く終わらず,手が痛くなってきてもまだまだスクルロールバーが半ばくらいにしか行っていないのを見たときの徒労感とともにスクロールをしつづけ,遂に最後まで到達しようとしたとき,私は《Ryder Ripps's Facebook》にリップスがFacebookとともにあった7年間の「ほぼすべて」を感じたのです.それはネット上のデータだけでしかないものだけれど,いやだからこそなのかもしれませんが,そこに残っているデータからリップスのリアルをリバース・エンジニアリングして立ち上げてしまったような感じです.だから,Facebook上のリップスの7年間をすべてスクロールした私は,リップスは「ネット≒リアル」と強く感じていて,それをアピールするために《Ryder Ripps's Facebook》をネットに作品として公開したのではないかと考えるようになりました.みなさんも一度,すべてスクロールしてみてください.スクロールしないとわからない感覚が,そこにあります.

リップスのネットへの感覚の根本にはネットとリアルは確かに違うところもあるけれど「だいたいいっしょのものとして考えてみたほうがいいんじゃないか」という感覚があると思います.リップスはこの感覚を様々な角度から示すために作品をつくっていると言えます.例えば,今回取り上げた《Ryder Ripps's Facebook》はネットの「ストック」の問題から,「Hyper Current Living」はネットの「フロー」を問題にしながら,それぞれそこに「ネット≒リアル」を表したものだと考えられます.《Ryder Ripps's Facebook》は7年間の全データという「ストック」を公開して,見る人がデータを延々とスクロールし続けることでリップスの「過去」がそこでリフローされるわけです.ここでは延々とスクロールしつづけて作品を見る人の身体に「ネット≒リアル」という感覚が立ち上がります.これに対して,「Hyper Current Living」は,アイデアの流れ,そして生きていることの源泉としてのリアルな「身体」をネット中継することが「ネット≒リアル」を体現する方法だったのです.とても単純なことですが,ネットに公開されながらツイートし続けるリップスの「身体」が「ネット」と「リアル」を「ほぼイコール」な関係として結びつけるのです.だから,柔道着を着た自分を自撮りしてアピールすることは,「ネット≒リアル」と考えるリップスにとってその関係を簡潔に示す必然の方法だったのです.リップスの作品はどれもユーモアにあふれていますが,そのユーモアの先には「ネット≒リアル」という結構シリアスな感覚があるのです.

ライダー・リップスが「ネット≒リアル」だとすると,エキソニモは「ネット↔リアル」だと私は考えています.やっとエキソニモに移れます.でも,もう長くなりすぎたので,この先は次回にさせてください.すいません.

次回予告:エキソニモの2003年の作品《Natural Process》は「ネット↔リアル」の行き来を示していて,IDPW名義でのインターネットヤミ市も「ネット≒リアル」ではなくて,「ネットの感覚をリアルに持ち込む」という意味で「ネット↔リアル」なのではないでしょうか.「ネット↔リアル」「ネット≒リアル」のどっちが優れている/あたらしいではなくて,ネットとリアルに対するふたつの態度だと思います.世代によってこのふたつの態度のどちらを取るのかにはちがいはあるのかもしれない.そんなことを次回考えてみたいです.


今回はエキソニモをメインに考察を進めていきますが,前回の結論で「ライダー・リップスのネットへの感覚の根っこには「ネット≒リアル」がある」と書いたのが自分のなかでイマイチ掴めていなかったりします.対して,エキソニモが示すネットの感覚は「ネット↔リアル」だと私は考えていて,こちらの「ネット↔リアル」については,自分では掴めている感じがあります.なので,自分が実感できている「ネット↔リアル」を「ネット≒リアル」と対比させていくなかで,前回のモヤモヤしたものが少しは明確になっていくのではないかと期待しながら,今回はエキソニモについて書いていきます.

自然なプロセス

エキソニモには《Natural Process》というプロジェクトがあります.2004年に発表されたので,今から10年前のものになります.このプロジェクトはGoogleのトップページをキャンバスに描いた《A Web Page》を中心に構成されています.《A Web Page》は「コンピュータの画面」を描いた絵画であり,それはまた「ウィンドウ」から見える「風景」を描いた「風景画」でもあります.エキソニモはその《A Web Page》を美術館に展示します.そしてそれをウェブカメラで撮影して,ネットに流します.そうすると,2003年12月10日にキャプチャーされ,その後,絵画化された「Internet Explorerのウィンドウ」と「検索窓のみのシンプルなGoogleのトップページ」がネットに戻っていきます.Googleが絵画としてリアルに引っ張りだされて,ウェブカメラを通してネットに再び還っていきます.この一連のプロセスが「Natrual Process=自然なプロセス」と名付けられています.2014年の今から考えてみると,ネットの感覚がリアルに色濃く反映するのは当たり前になってきたし,ネットを反映したリアルの感覚がネットに影響を与えるというのはこの10年間でとても自然な流れになっているので,《Natural Process》はこのことを作品のタイトルと構造で予見していたとも言えます.

《A Web Page》について,ICCの主任学芸員・畠中実さんは「イメージをイメージとして描くある種のまわりくどさ」があると指摘しています[全感覚 No.4, p.14].どういうことでしょうか.「ウェブページ」というイメージを「絵画」というイメージに描くということだと,私は考えました.「絵画」はモノなんだけれども,それは多く人にとって,特にそれが美術館などの壁に展示されると「モノ」ではなくて「イメージ」として扱われるわけです.ウェブページも液晶ディスプレイ,少し前はもっと大きなCRTディスプレイに映されているわけですから,それは「モノ」としても考えることができるわけですが,ほとんどの人は絵画と同様にそのモノの部分は無視してウェブページを「イメージ」だと考えます.なので,《A Web Page》は,見る人が「イメージ」だと思っているものを「イメージ」に描き直しているだけであって,「ウェブページ」というディスプレイ上のイメージが,触ることのできるモノとしての「絵画」になったというイメージとモノの関係を変えるものではないと言えます.「ウェブページ」から「絵画」に変わったときに起こっているのは,「ネット→リアル」という変換なのです.そして,リアルな絵画がウェブカメラ経由でネットへと更に変換されます.《Natural Process》はGoogleのトップページがイメージのままネットとリアルのあいだを行き来するプロジェクトというわけです.《Natural Process》はどこまでも「イメージ」を扱った作品なのです.

身体を置いってしまう意識の流れ

エキソニモには《》という作品があります.《↑》は《Natural Process》と同様に「イメージ」を主に扱っているのですが,一部に「モノ」を扱っているために作品のなかでの意識の流れがよりややこしいものになっています.デスクトップ上の「カーソル」というイメージが「モノ」として実体化されて,リアルな空間に配置されています.そのリアルカーソル,あるいは単に物体化した矢印を見ると,なぜか意識がデスクトップ,ディスプレイの方へと強制的に向けられてしまいます.ディスプレイに表示されている「デスクトップ」という仮想の机の上と会場に設置されたリアルな机のあいだで,鑑賞者の意識をあっちこっちに強制的にねじ曲げて,スティーブ・ジョブズの「現実歪曲フィールド」のような「次元歪曲フィールド」が立ち上がります.そして,実体化したカーソルによって意識をねじ曲げられた先に,「私たち自身」というか「自分がいる空間」がイメージ化されてディスプレイに映るということが起こります.「リアルのイメージ化」は自分がその空間にいるときには,自分がそこにいるという感覚が必ずあるので,臨死体験のようなことでもないと起こらないことです.でも,《↑》では「リアルのイメージ化」を感じさせるような意識の流れがつくられると同時に,意識のように自由ではない身体がその流れに乗ることができずに置いていかれます.

「ネット↔リアル」と「ネット≒リアル」

エキソニモの作品には,意識が半ば強制的に「こちらから向こうへ,向こうからこちらへ」という感じで連れて行かれる「次元歪曲フィールド」を発生させるものが多くあります.ここでリップスの作品を思い返してみると,そこには「連れて行かれる」という感覚がないことに気づきます.このちがいからリップスの作品を考えてみると,そこにはそもそも「ネット」と「リアル」という2つの世界の境界を感じることが少ないのです.リップスはこれら2つの世界を意識させない方向へと作品を体験している人を誘導していると考えることができます.リップスのこの意識の流れの操作はとても密やかなものです,いや,リップス自身は「操作」しているとも考えていないのかもしれません.それほど自然にネットとリアルとのあいだを行き来している感じです.エキソニモのように強制力があれば,そこでの意識の操作に気づきやすいですが,リップスのように何でもないような感じで自然にネットとリアルとのあいだにある自分の意識を操作されるとそこで何が行なわれているのかわからないのではないでしょうか.

今までのところをまとめてみます.エキソニモは「ネット」と「リアル」という2つの領域を明確に意識させて,鑑賞者の意識がそのあいだを行き来させるような作品をつくります.だから,そこには「ネット↔リアル」という2つの領域を行き来する感覚が生まれます.対して,リップスは「ネット」と「リアル」とを意識させない方向に鑑賞者を導きます.その結果,ネットとリアルの境界があいまいな「ネット≒リアル」という感覚が,見る人のなかに生まれてきます.

「スポーツする身体」と「消える身体」,再び

このふたつの関係のちがいには,前々回,前回扱った「身体」が大きな役割を担っていると考えられます.「スポーツとしてのコンセプチャルアート」を掲げるリップスは「身体」を強調すること,あるいは鑑賞者の身体を使うことで,「ネット/身体/リアル」という関係をつくって,身体を媒介させながらネットとリアルとの境界を希薄化していきます.ネットもリアルも身体が接している世界ということではちがいがないわけです.普段は「ネット」と「リアル」という対立で考えてしまいがちですが,「ネット/身体/リアル」というのが,普段,私たちがネットをしているときの向かっているときの基本的な関係なのです.リップスはこの「基本的な関係」のなかにある「身体」を強調(=柔道着を着てツイートする)したり,うまく使う(=Facebookのログを延々とスクロールさせる)わけです.ネットもリアルも身体を介しているという単純な事実をリップスは強調していくアプローチなわけです.このように考えてくると「スポーツとしてのコンセプチャルアート」も突飛なアイデアではなく,「コンセプト」だって身体を必ず介在させるのだから「スポーツ」として成立するはずと思えてきます.

対して,エキソニモは身体にアプローチするのではなくて,意識の方向付けを強調します.その結果として,「ネット/身体/リアル」という普段,ネットに接しているときの状態から「身体」を消し去っていってしまいます.そうするといつもネットとリアルとを媒介している「身体」が消えてしまってしまうわけですから,ネットとリアルとが直結するような感じになります.だから,「ネット↔リアル」なわけです.でも,ネットとリアルとは対立しているわけではなくて,それらはイメージのレベルでは「自然=Natural」に行き来できることを,エキソニモは示します.でも,そこにはモノのレベルとしての身体がないので,どうしてもそれはとても急な感じがしてしまう.この状態では「行き来」するというよりは,ネットとリアルとのあいだで強制的な「同期」が起こっていると言い換えた方がいいのかもしれません.

ネットとリアルの広場

「ネット↔リアル」では,ネットとリアルとが半ば強制的に同期していきます.エキソニモの作品制作のひとつの流れは,《Natural Process》が示していたこのプロセスをより明確にしていったものだと考えられます.そして,連作「ゴットは、存在する。」は「ネット/身体/リアル」という関係から身体をすっぽりと消し去ってしまって,とてもコンセプチャルな作品になっています.そして,《↑》では,鑑賞者の身体をネットでもなくリアルでもないここではないどこかに置き去りにすることで,「ネット↔リアル」できる意識の状態をつくりだすことに成功します.なので,「ネット↔リアル」をめぐるエキソニモの作品の抽象度は《↑》で行き着くところまでいってしまった感じがあります.その後,「ネット↔リアル」の意識をもういちど具体的な存在に落とし込んだのが,IDPW名義での「インターネットヤミ市」だと考えられます.身体を無くしてコンセプチャルな存在となったネットとリアルとをめぐる意識を,「場所」にインストールしたわけです.「身体」ではなく「場所」にインストールし直したのはとても興味深いことです.それはコンピュータやネットが「身体」に縛られていたとしたら,その制約を取り払ったとも考えることもできます.「インターネットヤミ市」はリアルでの取引というとてもフィジカル=身体的なイベントなのですが,ここで起こっていることは一度身体から引き離した「ネット↔リアル」という感覚を「場所」に再インストールして,そこで改めて「身体」がどんな振る舞いをするのかを見てみるという,とてもコンセプチャルなイベントだとも考えることができるわけです.

エキソニモの「ネット↔リアル」を経由することで,リップスの「ネット≒リアル」が掴めてきたような気がします.「ネット≒リアル」では,ネットとリアルとは行き来するものではなくなって,どちらもとてもナチュラルに「身体」とともにあるものになっています.身体を強調することで,意識は「ネット」と「リアル」との境界を意識しなくなるというか,身体のなかで溶けていくという感じでしょうか.ネットとリアルとの境界がなくなっていくので,私たちの活動できる領域が増えていくわけです.エキソニモとの対比で考えると,ネットとリアルのあいだの「↔」という通路が徐々に広がっていって,もっと自由に動ける広場になったようなものです.でも,それは今までと異なる領域が増えたわけですから,まだイマイチよくわからなものなのです(だから,最初に「ネット≒リアル」のことがわからなかった,というのは言い訳です).

身体をなくしていったエキソニモがリアルの場所で「インターネットヤミ市」を開き,身体を強調するリップスはネットとリアルとのあいだをうめる広場を作品を体験している人の意識のどこかにつくりだしています.エキソニモとリップスのネットへの感覚を考えた結果として,「市場」や「広場」といった大きな「場所」に行き着きました.

ふたつの態度と世代

何度も言いますが,「ネット≒リアル」と「ネット↔リアル」とはどちらが優れているとか,あたらしいとかいう問題ではありません.私にとってはエキソニモの感覚の方がナチュラルで,リップスの感覚はモヤモヤしたものでした.それは単にネットとリアルに対する「態度」みたいなものです.ですが,その「態度」の根っこにはネットとの接触時期がいつだったのかという「世代」の問題があるかもしれません.エキソニモはあるインタビューのなかで,大学生のころにネットに接触したので,作品のなかでネットを「誇張」して扱ってしまうと述べていました.そして,ネットを当たり前として育った世代はもっとナチュラルにネットを扱えるのではないか,そのなかから面白いものがでてくるのではないかと続けていました[http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/exonemo.htmにあった動画で語っていたのですが,今は見ることができません.残念です].リップスがそのひとつの例なのかもしれません.ネットとリアルとの関係を特に誇張することなく扱える感覚を示しているのリップスで,それが「ネット≒リアル」ということなのかもしれません.エキソニモはネットとリアルとの関係を「誇張」してしまうから,「ネット↔リアル」という感じになるということでしょうか.

そして,リップスとエキソニモの作品における言葉の使い方にも,この世代の感覚が示されているような気がします.なので,この「世代」があるのかないのかを確かめるため.もう1回,「言葉」という観点からエキソニモとリップスの対比をして,彼らのマッピングを終えようと思います.


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