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010:私のようなものを見ることについて👀

授業準備のために,谷口暁彦さんの《私のようなもの / 見ることについて》の記録映像を見ているのだけれど,実際の作品の体験とは異なる映像になっていて,面白い.

記録映像になっていて,ICCの展示のときは操作できたアバターを操作できないことが不思議な感じを出している.二つのアバターの視線が交わるときに「どっちつかず」の気持ち悪さを感じた.作品を操作しているときは,一つのアバターと私は一体になっているというか,「主人公」のような存在になっているから,そこが一つの中心であった.けれど,映像になるとどちらも操作できないから,どちらが「主人公」なのか,どちらが操作されたものなのか,ということが宙吊りになって,どちらもノンプレイヤーキャラクター(NPC)なのではないかと思い始める.

マシニマは,素材がビデオゲームであっても,最終的に映像編集ソフトで編集して書き出された映像作品だ.そこにインタラクションが無いのは当然である.しかし,マシニマが実写映像やレンダリングされたCGと大きく異なるのは,登場するキャラクター達がマウスやキーボード,コントローラーというインターフェースを通じて,「かつて誰かに操作されていた」ということである.演技や動作が,インターフェースを通じて現実の誰かの手によって行われた,その結果の記録なのだ.
ゲームアートにおけるゲーム世界の自律性,谷口暁彦

谷口さんがエクリに書いたテキストを読みながら,映像をみる.そうすると,私がどちらのアバターを「主人公」だと思ってしまうのは,マシニマにおいて「かつて誰かに操作されていた」ところの「誰か」が「私」であるからだろうと思った.「マシニマを見るときの経験には,素材となったゲームを普通にプレイしたことの追体験も入り込んでいるはずだ」ということだろう.そうだとすれば,作品を体験していない学生はどう思うのだろうか.気になる.

ゲームをプレイすることは,現実の世界の私がゲームの世界へと没入することだ.没入することは,ゲームにあらかじめ用意されたルールや行動原理に盲目的に従うことであり,それはゲームの世界の自律性や持続性を隠してしまう.だから,コントローラーを置き,プレイすることをやめなければならない.
 ゲームアートにおけるゲーム世界の自律性,谷口暁彦

《私のようなもの / 見ることについて》を記録映像として見るとき,私はコントローラーを置き,プレイすることをやめている.だから,「私のようなもの」が二つの自律したアバターを見ることになる.同じアバターがそれぞれ別の視界をもち,それらを同時に見ながら,双方の視界にそれぞれのアバターが入り込んでくる.外見が同じ存在であるが,別々の動きをする自律した存在を一人称視点で同時に見る.このとき,私は,いったい何を見ているのであろうか? 

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