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012:自分が書いたエキソニモの《ゴットは、存在する。》関連の記事のまとめ

「ゴットを、信じる方法」でのトークのために,自分が書いたエキソニモの《ゴットは、存在する。》関連の記事をまとめてみた.

この意味で、エキソニモの《祈》は残酷かもしれません。完全にヒトを必要としていないからです。マウスとカーソルは通常の機能を果たしているにもかかわらず、ヒトは「祈る」行為を想起することしかできません。それに対して、谷口の《A.》では、ヒトがまだ「思い過ごすものたち」に含まれています。ヒトの思い過ごしによって、iPadと風を接続する回路は生成されています。
いや、もしかすると、より残酷なのは谷口の方かもしれません。谷口がつくる回路には、何ひとつ明示的なオン/オフがないからです。iPadには加速度センサーがついていますが、この作品では揺れを感知していません。ただ扇風機の風に吹かれて揺れているだけです。《A.》は情報の流れをつくらず、重ね合わされたマウスのようなヒトの行為に似た要素もなく、風に揺れるiPadという物理現象を頼りに、ヒトの想起を取り込もこうとしているのです。

「ゴットを信じる会」によって再制作されたゴットにも,谷口暁彦さんの作品のように明確な(電子的な?)「情報の流れ」はない? 

情報の流れのなかに見る人をどのような位置付けで置くのか? で,「ゴット」の現れ方は変わるのかもしれない.

エキソニモの《Spiritual Computing a.k.a. ゴットは、存在する。》シリーズを「ヒトの最後/最期の行為の記録」として位置づけてみたい.ダグラス・エンゲルバートによってヒトとコンピュータとが共進化していく場として「インターフェイス」が設定されていたけれど,ヒトの進化が遅く共進化は遅々として進まない.インターフェイスは「共進化の場」ではなく,ヒトとコンピュータとを取り込んだより大きな存在を構成する「回路」だと考えた方がいい.ヒトはコンピュータの登場によって,コンピュータとともに「回路」を構成するスイッチになっていたことに,エキソニモの《Spiritual Computing》は気づかせてくれる.そして,エキソニモの作品を考えることは,ヒト中心主義から脱却した「Spiritual Computing」を現われを示すことにつながる.
「概念としての猿」というのは,生物学的な猿ではなくて,ヒトとコンピュータとのあいだにあり続けたインターフェイスに生じた「スピリチュアル」な領域なのではないか.表層と深層(コード)を自由に行き来してきたエキソニモは,ヒトとコンピュータとの膨大なやり取りが世界中で行なわれているインターフェイスに「概念としての猿」が生まれた,あるいはもともと存在していたことに気づいた.それは「スピリチュアル」な領域であって,そのまま出せば「あぶない」とされる.だから,エキソニモは「概念としての猿」を表層とコードとがせめぎ合う場所=インターフェイスに閉じ込めたのではないか.あるいは,インターフェイスにおけるスピリチュアルの存在を確かめるために連作「ゴットは、存在する。」をつくったのではないか.

何かと何かとあいだの「インターフェイス」であるならば,そこにスピリチュアルな存在が宿る透き間があるかもしれない.けれど,表層と深層とが一体化してモノとなり,サーフェイスとバルクに変化したとしたら,スピリチュアルな存在が宿るところが「インターフェイス」からなくなるのかもしれない? いや,スピリチュアルな存在がモノそのものに宿ることになり,ヒトとコンピュータとのあいだに束の間存在した「インターフェイス」という存在がなくなるだけかもしれない.

ゴットは、存在する。」シリーズには重ねわせたふたつのマウスがカーソルを動かす《祈》、スペースキーの上に置かれたオブジェが「かみ」の変換候補をループさせる《迷》といった作品があり、これらも《DesktopBAM》と同じようにヒトが触れていないにもかかわらず、カーソルは動き、キーボードは押されていて、そしてそのタイトルからもコンピュータがヒト化されています。同時に作品が示すコンピュータの「ヒト化」を読み取れる「あなた」は「ヒトがつくってきた意味の世界で生きているヒトですよ」とチューリングテストの監督者=エキソニモに言われているようです。
しかし、今回の展示タイトルは「エキソニモの猿へ」です。2009年の《DesktopBAM》や「ゴットは、存在する。」から4年後の回顧展的個展のタイトルに「猿」が出てきます。そして、この「猿」という言葉自体をエキソニモのひとつの作品として考えてみると面白いのではないでしょうか。それはエキソニモの作品の延長に「猿」がでてくることを考えてみることです。《DesktopBAM》や《祈》、《迷》で使われているコンピュータはヒトがつくりだした「意味の世界」から解放されています。つまり、「祈」「迷」といった言葉が持つ意味はコンピュータ自体が行っている演算・行為とは関係ありません。そこにそれらの意味を見出すのはあくまでヒトであって、コンピュータ自体はヒトではなくて意味から解放された「猿」になっているのかもしれません。だから、コンピュータはカーソルを動かし続ける「猿」、キーボードを叩き続ける「猿」であるとも言えます。「あなた」は猿をヒトと間違えたことになります。もしかしたら、意味に囚われすぎているヒトやコードに縛られているコンピュータよりも猿のほうがチューリングテストの監督者に向いているのかもしれません。このように考えてくると、チューリングテストの監督者がエキソニモというヒトのユニットではなくなり、ヒトでもなくマシンでもなく、「表層」も「ソース」も関係ない猿がテストの監督者となって「キーキー」と叫びながら、ディスプレイの向こう側にいる存在を「ヒトなのか/コンピュータなのか/猿なのか」を決めているような不思議な感じになってきます。エキソニモの作品を通して「猿へ」メッセージを送り、猿にその存在のあり方をジャッジされる。
最後の「2009」セクションのはじめには、「あとはPCにまかせた」というキャプションの言葉の通りカーソルが音楽を奏でる《DesktopBAM》(2009)が置かれている。このセクションにあるすべての作品に「手を触れないでください」というマークが貼られており、マウスやキーボードはあるが鑑賞者はそれらに触れることはできず、「あとはPCにまかせた」状態になっている。人間との関係が絶たれた状態のセクションの中心となるのは、インターネットの神話的構造を明らかにしつつある連作「ゴットは、存在する。」(2009-)である。意味深なタイトルをもつこの連作から今回は、重なりあった2つのマウスがカーソルを動かす《祈》(2009)、Google日本語入力の「かみ」の変換候補を示し続ける情報彫刻《迷》(2010)、Twitterのタイムラインに「ゴット」が次々に降臨する様子を映し続ける《噂》(2009)が展示されている。そして最後に、iPhoneとプロジェクターを接続してあらゆる場所への映像の「爆撃」を可能にするiPhoneアプリ《VideoBomber》(2012)によって、私たちと情報、その間にあるインターフェースについての簡潔なメッセージが投影されている。
「猿へ」の展示は「1999」「2005」「2009」と続いていくが,「2013」に近づくにつれてネットから離れていく感じがある.「2009」セクションにある「ゴットは、存在する。」シリーズのなかにあるTwitterを題材にした《噂》があるようにネットを用いているものはあるけれども,どこか「インターネット」そのものを扱っているという感じはしない.もう「ネット」を「ネット」として単体として切り離すことが難しいからかもしれない.
また年代が今に近づくにつれて,「パソコン」と呼ばれるものからも離れていく感じがある.最後の作品はマウス・キーボード・ディスプレイといったコンピュータのかたちを離れ,スマートフォンからの「プロジェクション」になっている.「インターネット」という技術から始まって,最後はプラトンの洞窟ではないけれど「プロジェクション」という古の技術で終わるのは興味深い.技術の変化に呼応するように大人が書いたものから子供が書いたものへと変化していく手書きキャプション.そしてプロジェクションには「#猿へ」の文字.ネットを手に入れて進化していった人類を考察した結果得られたひとつの答えが「#猿へ」の回帰? 「回帰」ではなく,「猿」に似た「#猿」というもうひとつの存在への着地だとすれば面白い.
はじめに「世代」が気になると書いておきながら,アラムとエキソニモの比較だけになっているので,ここらで「世代」的なことを.1972年生まれのアラムと千房さんには,「ハッカー」という言葉が,1986年生まれのペトラ・コートライトには「デフォルティスト」という言葉が当てはまって,その間に,1977年生まれの自分がいる(デフォルティストといのはパソコンの「デフォルト」の機能を使うという感じ→Hacking vrs. defaults).自分は「ハッカー」的なことはできなくて,デフォルト機能を使いまくる「デフォルティスト」なんですが,「ハッカー」的なくくりのアラムとエキソニモの作品の方が,「デフォルト」的なペトラの作品よりも「分かる」気がしています.
インターフェイスというかコンピュータが出てきたことで,アイデアを「実装」することができるようになったと思う.今まではアイデアはアイデアのままで本などに記されていたのみだったのが,今はアイデアに次の段階として「実装」があるのではないでしょうか.アイデアが実装の段階に入ると,アイデア以上の「何か」がそこに入り込む.例えばデスクトップ・メタファーというアイデアが実装されたときに,ダグラス・エンゲルバートやアラン・ケイなどのアイデアに「何か」が入り込んだのではないか.私はエンゲルバートやケイのアイデアを解読することで,ヒトとコンピュータとの関係を考えたけれど,エキソニモが《ゴットは、存在する。》や《断末魔ウス》でやっているのは「実装」の段階でヒトとコンピュータとのあいだの中間領域に意図せずに出来上がってしまった「何か」を解読しているような気がしている.
中井さんがエキソニモの作品を「新しいメディアの原理・原則」を追求していると言っていて,それは「コンピュータでしかできないことをコンピュータでする」ということで,クレメント・グリーンバーグのモダニズムの考えにも繋がるのではないかと指摘していた.それを受けて,畠中さんが「新しいメディアの原理・原則」を追求していった先に,何か「世界観」のようなものが出てきたのエキソニモ作品なのではないかと言っていた.「原理・原則」の先の「世界観」というのが,アイデアだけで完結するのではなく,アイデアを「実装」したときに生じた「何か」なのではないのかなということを,シンポジウムを聴いて,自分の中で沸き上がってきたこと.
エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う.
だからかもしれないが,《ゴット・イズ・デット》には,いつ何が起こるか分からないという「不穏さ」を多分に感じる.インターネットはいつもそこにある「もうひとつのリアル」となっているけれど,その存在を改めて明確に示されると,ヒトはそこで何が起こるのかまだ予想できないのではないだろうか.そこは常に何かが起こりそうであり,常に何かが起こった後でもあるような感じがする,今までとは異なる世界.そのようなことは普段ネットに触れているときは,「便利さ」に隠れて感じることがなくなっているが,ヒトにとってネットは本質的に何が起こるかわからない「不穏」な存在なのではないだろうか,ということを《ゴット・イズ・デット》を体験しているとに感じた.

「不穏さ」があるかないか,ここが「ゴット」の現れを大きく左右すると思われる.

人間ではなく,モノが「祈る」こと.人間を排除しているとかではなくて,ここでは単にモノが「祈る」.これから人間は今まで自分たちしかできなかったと思っていた行為を,コンピュータが生み出すイメージとそれに結びついたモノによってやられていくだろう.でも,「それでいいのだ」ということをエキソニモの作品からは感じるのだ.人間はもはや特別な存在でなく,イメージとモノと等価な存在となるのだ.

「祈り」という言葉を使うのは人間であるから,この段階では人間は「祈り」と結びついた特別な存在であることに,私は気づいていない.


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