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172:記号的表現|白いグニャグニャしたペースト|感覚データ

編集者の後藤繁雄さんに児嶋啓多さんを紹介された.児嶋さんは3DCGで文字のオブジェクトをつくり,そのオブジェクトをARで街中に設置している.このプロジェクトをまとめたのが,「Augmented/Words in the city」で.これまでに「渋谷」「有楽町」の二つの写真集=ガイドブックがでている.

児嶋さんの作品を見たときに,私が今,考えていることに近いなと思った.児嶋さんとのメッセージのやりとりで.私は彼がつくる「言葉の形態がどこか認識一歩手前な感じ」と書いている.

たとえば,上の作品の文字を読めるだろうか.ここにあるものが「文字」だと知らなければ,読めない人もいると思う.ここにあるオブジェクトは「now in blank」であると言われると,多くの人は「now in blank」と読めてくるだろう.このような文字を読める読めないを「認識の一歩手前」と,私は感じていた.しかし.児嶋さんから送ってもらった写真をよく見ていると,文字が読み取れるかどうかも関係はしているけれど,それ以前に紙でもディスプレイでも大抵は二次元平面に置かれている文字に詰め物をしたような三次元のオブジェクト自体の存在が「認識の一歩手前」の存在なのではないかと考えるようになった.

渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』の第5章「意識は情報か,アルゴリズムか」に「多層生成モデルが実現するリアルな脳の仮想現実」という節がある.そこに次のように書かれている.

このようにリアルな生成モデルでポイントとなるのは,高次の視覚部位がもつ記号的な表象から,三次元のバーチャルな世界へといったん表現が膨らみ,その後,二つのカメラに相当する眼球由来の低次視覚部位の表現への収斂されることだ.p. 265

「生成モデル」というのは脳の機能で高次の記号的表現から三次元の仮想世界をつくり出た表象と低次の感覚データとを比較して,そこに誤差があれば,表象を修正していくことで,外界との誤差を可能な限り少なくした表象をつくるというものである.私は,このテキストを読んで以来,頭のなかに「白いグニャグニャしたペースト」が蠢くようになっていた.「白いグニャグニャしたペースト」は,脳の記号的な表象が「三次元のバーチャルな世界へといったん表現が膨ら」んだものである.私は三次元の仮想世界は外界と一致するようなフォトリアルな3DCGではなく,もっとグニャグニャした一見しただけでは何だかわからないものなのではないかと考えている.何だかはわからないが,三次元的なオブジェクトではある.それらが感覚データと照合されるなかで,フォトリアルな3DCGのオブジェクトが出来上がっていく,というような流れを渡辺のテキストを読んで以来考えていた.

そのようなときに,児嶋さんの作品をよく見ていったので,彼がつくる文字のオブジェクトを「白いグニャグニャしたペースト」と見るようになっていったのである.これまでは主に高次の記号的表現と感覚データとが一致するかたちで生成されたものを「写真」と呼んできたので,写真は「フォトリアル」な機能を求められてきた.しかし,デジタル化以降の写真は操作可能性が広がった先で,「フォトリアル」である必要がなくなっている.デジタルカメラが捉えるのは外界から取得する初期値としてのデータで,それはどのようなものにも変化できるものである.だから,フォトリアルな写真もできるし,フォトリアルではない写真もできあがる.

フォトリアルではない写真は「記号的表現|感覚データ」とのあいだに「白いグニャグニャしたペースト」を入れ込んでいると,私は考えている.「白いグニャグニャしたペースト」はさまざまな形態で写真の中に入り込んできていて,それが児嶋さんの場合は3DCGでつくられたグニャグニャした文字のオブジェクトだったということになる.「記号的表現|白いグニャグニャしたペースト|感覚データ」というかたちで,デジタル化以降の写真は生成モデルで記号的表象が一度膨らんだ三次元仮想世界の表現そのものをつくり出そうとしている.それは,ヒトの認識のプロセスにおいて,いまだ解明されていない部分を写しとろうという試みなのである.


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私がFour-D notesで連載している「フラットネスをかき混ぜる🌪」で考えている「フラットネス」というのは「白いグニャグニャしたペースト」のことなのだろう.



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