020:身体変容という点で、UIはVRと同じである

カーソルとなって画面上の一点「ここ」を指すように変容した身体は、スマートフォンにおいては画面全体と指とが接触しているときのみ「ここ」が発生する。「ここ」を起点にして、最小化された行為が行われる。

そして、ゼログラビティの撮影でライトボックスのなかにリグで固定された俳優には「ここ」しかない。「ここ」で、プレビズに基づいた最小化した演技が行われ、カメラと映像とが最大限に動く。そこにはHMDを装着した人のように自由がない。しかし、それは自由がないのではなく、身体全体をパーティクル化の方向に拡張していると考えることができる。環境が身体を拡張するようにセッティングされている。

身体変容という点で、UIはVRと同じである。UIもVRも、私たちが複数の身体でできていることを行為を通して意識する場として機能する。パーティクル化した身体と生物学的身体に基づく意識とが否応なく重なり合ってしまうのがUIであり、VRのあるべき姿なのではないだろうか。

スマートフォンは指が示す点と画面全体とが連動する。点で全体が動くということが重要である。点がオブジェクトを動かすのではなく、オブジェクトを含む空間全体を動かす。パーティクル化した身体が画面全体に拡張する。点が面に拡張するような感じだろうか。

ライトボックスのなかでの最小限の演技が成立するようにパーティクル化した映像空間自体が最大限に動く。これは、スマートフォンにおける指と画面との関係のようなものである。画面全体のリズムで、身体の動きが決定する。プリビズに身体を合わせるように、私たちもまたスマートフォンのUIの動きに身体を合わせている。UIがヒトの意識に沿うように半自律的に動くようなっている。画面全体のなかでの点の動きを自分で決めているのか、それとも、画面が決めているのか、その境界が不確かになってくる。

このような環境で撮影されたサンドラ・ブロックは、宇宙に投げ出される。そこでは、最初、パーティクル化した身体と生物としての身体が分離している。パーティクル化した映像のなかで拠り所がないサンドラの生物としての身体がクルクルと回っている。やがて、サンドラは自分の位置を明確にして、宇宙のなかに自分を点として位置づける。そして、生物的な身体とパーティクル化した身体は一人称と三人称の視点の入れ替えを通して重なり合っていく。そこで、二つの身体を重ね合わせるのに重要な役割を担っているのが、呼吸である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?