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フラットネスをかき混ぜる🌪️第6回:認知負荷ゲームとしてのエキソニモ「Sliced(series)」(3)──《A cracked window, sliced》が示す「視界」のカットアップ✂️

このテキストはiiiidに連載していた「フラットネスをかき混ぜる🌪️」の続きです.

「解像度」を軸にした認知負荷ゲームをしてみた👀

私は前回のテキストでエキソニモの「Sliced(series)」の作品《A shot computer keyboard, sliced》とヒトの認知プロセスとを「解像度」を軸に重ね合わせて,次のように書いた.

最背面にあるレイヤーはキーボードと木の板とを区別するオブジェクトの輪郭を高速で処理する超低解像度で「認識の底を感じさせるような」色面となっていて,色のパターンで外界を切り分けていく.その上にあるのが網膜の情報から一つのオブジェクトとして切り出された色のパターンではあるが,まだ何であるかの予測がまだなされていないジスト知覚以前の表象である.この2番目のレイヤーが世界そのものの情報でもなく,ヒトの認知プロセスで意味づけもされていないという点でどこにも属さない平坦な情報の集合であり,情報のフラットネスと呼べるものである.だから,前回の分析では「単なるモザイク的表象」に見えたのだろう.そして,ここまでが網膜の120万画素がつくる「RAWデータ」がつくる表象である.次の3番目のレイヤーはキーボードの気配を感じさせるジスト知覚的なモザイク表象として現れ,情報のフラットネスを言語的フレームで改めて切り出し,「物質感をその向こうに感じさせる」ようになっている.認知プロセスにおいて,情報が物質にその現れを変えるのがこの段階である.そのコンテクストのもとで4番目のレイヤーがスーパー解像度のようにピクセル同士を関係づけながら,視界を埋めていくあらたなピクセルを生成し高解像度の表象をつくりはじめる.表象の高解像化は,最終的にピクセルが認められないまでに微細化したレティナディスプレイのように連続的に見える最前面のレイヤーとなって,視界に展開されるのである.1

フラットネスをかき混ぜる(5)認知負荷ゲームとしてのエキソニモ「Sliced(series)」(2) ──《A shot computer keyboard, sliced》から認知プロセスを透かし見る👀

この記述を受けて,私は世界を連続的表象ではなく解像度に基づいた離散的表象として認知できるのかを試す認知負荷ゲームを自分に課してみた.その結果,認知に負荷をかけているときではなく,何気ないところにモザイク的表象や単調なパターンが現れていることに気づくことになった.

銀色のレールが埋め込まれた木を模した茶色の部分

まず気づいたのは,事物の縁がチラチラとモザイク状に見えるということであった.そのモザイクを最初に意識的に認識したのは,朝起きて,ボーッと引き戸のレールのあたりを見ているときであった.銀色のレールが埋め込まれた木を模した茶色の部分の直線を見ているときに,縁の直線がカチッと定まらないモヤっとした感じで,赤や緑のモザイクでチラチラとしているように感じたのである.ある程度見てているとモザイクはなくなり,茶色い直線がピシッと定まって見えるようになるが,一度視線を外して,再度同じ場所を見ると,チラチラしている感じがして,茶色い直線がほんの少しだけ歪んで定まらないような感じになっていた.事物の縁がモザイク状になる現象は白い封筒の縁やベージュの本棚の縁といった鋭さを示す事物の縁に目の焦点を合わせようとしたときに比較的よく見られるものであった.事物の縁を見るとき,私の認知プロセスはその縁を連続的な直線として表そうと高解像度表象をつくろうとする.そのとき,私は認知プロセスに「物質感をその向こうに感じさせる」ようなモザイクが生じると書いたことを思い出したというか,一度そのように書いたことでそのような意識が自分にインストールされたことになっていて,その状態で事物の縁を見ると,細かいモザイクが見えてしまうようになっている.このとき,私が見ているのは網膜で光を受け取る細胞から生じる光の「RAWデータ」とジスト知覚を形成する言語的なフレームの予測情報とが合流してできる低解像度ではあるが,事物の気配を感じさせるモザイク表象だと言えるだろう.モザイク表象は世界の連続的表象をほんの少しだけ破って現れてはすぐに消えてしまうものだが,結構の頻度で現れるものになっている.

次に,エキソニモの「Sliced(series)」で2番目のレイヤーに現れると私が考えた単調な情報の集合は,単に瞼を閉じると体験できていたことに気づいた.これは私がテキストを書いたために,私にとって「瞼を閉じる」という行為の意味が「世界からの光の情報を遮断する」から「世界から入力される光の情報を単調化する」に上書きされて生じた認知体験と言える.ここで私が書く「単調化」とは,意識で何かを構築するための情報を世界から検出できない状態のことを意味する.瞼を閉じて得られるのは,最初は単調な色のパターンは事物の気配を持たない単なるモザイク表象でしかなく,しばらくするとモザイク表象も潰れていって赤を基調とする単調な色の広がりが視界を覆うことなる.世界からの光が自分の身体である瞼を透過していく際に,情報が単調化されて網膜に入力されていく.その光は世界の情報ではあるが,私の身体によって「フィルター」をかけられた情報になっている.私がはじめて瞼を閉じたときから,私の認知プロセスは「瞼を閉じる=世界の単調化」という予測モデルの形成しはじめ,瞼を閉じるという行為とともに認知プロセスのなかに世界を単調化するのに最適されたモデルが存在するようになったのと言える.つまり,瞼を閉じるという行為が,世界を単調化してその後のジスト知覚などの表象の高解像度化を抑制するためのトリガーとして機能するようになった.私が瞼を閉じると,私の認知プロセスは表象の高解像度化から解放されて,一時の「休止」状態となり,私は眠りに落ちることになる.私は瞼を透過していくる光の集合を介して,私のなかに世界にも私にも属さない情報のフラットネスがあることを体験していたことになる.しかし,私が意識的に瞼を閉じるのは眠るためであるから,「Sliced(series)」を分析するように単調な情報源から高解像度表象がつくられていくことはない.認知負荷ゲームを通して,私の認知プロセスは視界を埋め尽くす高解像度の膨大な種類の表象が現れるという意味で何でもつくれるけれど,そのプロセスに何にもならない単調さを示す情報源が存在していることに気づけたのはよかったと思っている.

私はエキソニモの「Sliced(series)」を体験しながら,最初は作品に見えている複数の解像度の重なりについて記述し,次に作品の複数の解像度をヒトの認知プロセスとを対応させて,解像度を軸にした認知プロセスの記述を試みた.そして,今回,解像度を軸にした認知プロセスを自分で試してみて,世界認識の解像度を下げることはできないわけではないが,作品のように複数の解像度で世界を認知するのはとても難しいことを実感した.事物の縁がほんの一瞬だけモザイク表象のように揺らぐのは体験できたが,それは制御できるものではなく,視界のほとんどは連続的表象を保っている.また,瞼を閉じれば連続的表象を単調な表象に変えられる体験はできたが,視界のなかに異なる解像度の表象をつく出せてはいない.そもそも瞼を閉じた場合は情報の単調さに解像度という単位自体も潰れてしまっていると感じられる.ピクセルが認められないという点で,瞼を閉じて形成される単調な表象と解像度を認められないレティナディスプレイのような連続的表象とは同じなのかもしれない.ということは,瞼を開けていても閉じていても,私の意識にはいつも解像度を認められない意味で連続的表象が張り付いていることになる.けれど,網膜の解像度を考えると私の認知プロセスのどこかに「Sliced(series)」のような表象が現れているという感じは残り続ける.なぜなら,そもそも網膜は中心部と周辺部で解像度が異なっているのだから,意識に現れる均一な連続的表象をつくるには,認知プロセスのどこかで複数の解像度を調整する必要があると考えられるからである.

ピクセルと解像度のカットアップ✂️

私はエキソニモの「Sliced(series)」を見て,考えるたびに世界の連続的表象がある程度壊れていき,解像度に基づいた離散的表象の現れを認知プロセスに感じられるようになった.その感じは作品を最初に見たときにも感じていたので,元々ヒトの認知プロセスにあるのかもしれない.しかし,意識に関する研究の知見をもとに作品が提示する複数の解像度を同時に見るという体験を分析したことで,私にインストールされた仮説的な認知プロセスによって生じたとも言えるだろう.あるいは元々あった認知プロセスが仮説的な分析によって強化されているとも言えるかもしれない.ここで確かに言えるのは,私はインプットした意識研究の知識を「Sliced(series)」という複数の解像度を同時に見せる表象を媒体にして,自分の認知プロセスをメタ的認知するという認知負荷ゲームをした結果,私の意識内に現れる世界の表象はほんの少し離散的になったということである.この体験を経て,ここで私が改めて考えたいのは,私にとっては意識研究の知見と私の認知プロセスとを強く媒介することになった「Sliced(series)」だが,エキソニモはどのような意図でこの作品を制作したのかということである.そもそもエキソニモはなぜ連続的に見える高解像度表象に低解像度表象を幾重にも重ねて,複数の解像度が混在する作品を制作しようとしたのだろうか.

オリジナルのソフトウェアを使用して制作されたグラフィック作品.画像を入力すると,手前から高解像度,奥に行くに従って低解像度になる5枚のレイヤーが生成され,そのレイヤーを「削る」事によってグラフィックを作っていくという自作ソフトウェアを使って作られた.削る作業は,ペンタブレットで絵を描くように行われている.カットアップの試みを,ピクセル間や解像度間に広げ,デジタルイメージの奥に潜む何かを炙り出す試み.2020年の個展「Slice of the universe」(MAKI Gallery, 東京)のために作られた3作品は「破壊されたインターフェイス」をテーマに選ばれた.それぞれ,「断末魔ウス用に撮影されたマウス」「Shotgun Textingで撮影されたキーボード」「ブルックリンの駅で見つけたひび割れた窓ガラス」の写真が元画像になって加工された.2

エキソニモ「Sliced (series) 2020」エキソニモ UN-DEAD-LINK アン・デッド・リンク インターネットアートへの再接続

エキソニモは「画像を入力すると,手前から高解像度,奥に行くに従って低解像度になる5枚のレイヤーが生成され,そのレイヤーを「削る」事によってグラフィックを作っていく」というプロセスによって,作品には高解像度表象とモザイクや色面といった異なる解像度による表象を混在させる.複数の解像度を一つのフレームに重ね合わせて表示するとき,一つの対象を同一の視点から捉えつつも,複数の現れが表出されていることになる.複数の現れは同一の物理状態から入力された情報が解像度の操作によって変化したものだから,それらは複数の現れでありながら,対応する物理状態はは同じということになる.キュビスムやコラージュなどで同一の対象を複数の視点から捉えて同一平面に表すことはされてきたが,同一の視点から複数の現れを同時に示すためには「解像度」という単位と,解像度によって自在に大きさを変える「ピクセル」という概念が必要だったと言える.このことは,連載初回で引用したアルヴィ・レイ・スミスの「ピクセルは個々の点でのサンプルである.それは幾何学(な形)を持たない」という主張を裏付ける.なぜなら,ピクセルは現実世界をサンプリングした点でしかないので,サンプリングレートの変更によって,解像度に基づいて大きさを変えるピクセルがつくる離散的表象はいかようにも変わっていくからである.また,解像度を変更する度に周囲のピクセルとの関係でピクセルの色の変更が生じている点も重要である.解像度ごとの規則によって世界を切り抜く型の大きさが変わり,高解像度の設定における複数のピクセルが低解像度の一つの「ピクセル」として設定されるなどして,同一の物理状態に対応する「ピクセル」が示す色が変更されていく.それは網膜に入力された色情報に対して,予測モデルの情報を付加して色を勝手に変えていくヒトの認知プロセスと同じようなことが起こっていると言えるだろう.ピクセルをディスプレイの構造に基づく物質の単位ではなく,解像度に基づいて世界を自在にサンプリングしていく情報的存在と捉えて,エキソニモの「Sliced (series)」という複数の解像度が重なっている作品を考える必要がある.

一つのフレームで表示される画像が複数の解像度を持つ「Sliced (series)」は,ピクセルが物質から離れて,情報的存在になっていることを明確に示す.しかし,同一解像度の表象がディスプレイに現れていると,このピクセルの変化に気づかない.例えば,ディスプレイに高解像度画像と低解像度画像を並べて表示した場合,高解像度画像に比べて,低解像度の画像は「ボケ」て見えるとされる.この時に想定されているのはピントをしっかりと合わせて撮影された写真のように,物理的に的確に調整されて物理空間を可能限りそのまま写し取ったものが高解像度画像であって,ピントがずれてボケているように見えるのが低解像度画像ということである.このとき,2枚の画像は撮影された物理的な状態に還元されて,異なる物理条件から生じた2つの表象として見られている.しかし,高解像度画像と低解像度画像が示しているのは,レンズで集めた光が印画紙にどのように当たったのかの記録ではなく,撮影素子に当たった光から得られた情報の状態を解像度という単位で変更したもので,高解像度画像と低解像度画像とでは同一の物理状態から得られた情報に基づいて出力された別の現れなのである.エキソニモはピクセルが「同一の物理状態から得られた情報に基づいて出力された別の現れ」をつくれる情報的存在になっていることを明確に示すために「カットアップの試みを,ピクセル間や解像度間に広げ」たのである.

Artwordsで「カットアップ」の項目で、星野太は以下のように説明している。

ある一定の流れをもった作品を寸断し,まったく別の流れをそこに接続すること.文学においてはダダに起源をもち,その後フリオ・コルタサルやウィリアム・S・バロウズらによって用いられた20世紀以降の技法として知られる.文学におけるカットアップは,タイプライターで印刷された文字列をいちど断片化した後に再構成するという「分解」と「結合」にその本質がある.他方,音楽においては,ある音源から一部のフレーズのみを再録音し,しかるべき加工を施した後にそれを新たな楽曲へと組み込むことがカットアップに相当するが,音楽においてこうした作業は一般に「サンプリング」と呼ばれることが多い.また文学とは異なり,音楽制作においてサンプリングされたフレーズはしばしばある楽曲の構成要素として反復的に用いられるため,文学における一回的な「分解」と「結合」には必ずしも一致しないという側面もある.現代美術におけるカットアップには上記の文学と音楽双方からの影響が看取されるが,基本的にカットアップとは(その名が示すとおり)「寸断」という方法ないし美学である.したがって美術作品の場合,コラージュ作品,とりわけ異質な要素どうしの結合が,上記のような意味内容をもつカットアップに相当するものであると言うことができる.3

星野太「カットアップ」、Artwords(アートワード)

エキソニモが「Sliced (series)」で「カットアップの試みを,ピクセル間や解像度間に広げ」て「寸断」したものは何なのだろうか.それはすぐに「画像」だとなるが,「Sliced (series)」で制作された画像は情報を解像度に応じて正しく表示しているので,情報的には「寸断」は起こっていない.解像度ごとの表象の変化に「寸断」を見ているのは,ヒトの意識でしかない.つまり,エキソニモがピクセルと解像度というデジタルな要素を使ってカットアップしているのは,ヒトの意識に貼り付けられた連続的表象であり,それは通常「視界」と言われるものになる.エキソニモは「視界」をカットアップしているのである

エキソニモの制作手順を振り返りながら,「視界」のカットアップを考えてみたい.エキソニモは「Sliced(series)」の制作において,最前面のレイヤーに配置された高解像度表象を見ることから始めており,それはどこも「寸断」されていない目の前に広がる「視界」として提示される.いや,それは「視界」ではなく写真や高解像度画像と呼ばれるものだろうと言われるだろう.しかし,エキソニモは高解像度表象を削り,その背後に置かれた様々な解像度の表象を露わにしていくことから考えると,最前面のレイヤーは写真や高解像度画像といった一つの平面を想起させる物質やデータに与えられた名前ではなく,認知プロセスというある一定の「厚み」を伴って現れる「視界」と呼んだ方がいいのである.エキソニモは同一情報から生成される複数の解像度の画像を重ね合わせて,上から順に削っていき,解像度に基づく様々な「大きさ」をもつピクセルを露わにしてい.その作業とともに,ピクセルを意識させない「視界」と様々な大きさをもつピクセルが隣り合うようになり,連続的表象と離散的表象という「異質な要素どうしの結合」が生まれる.私が「色面」や「モザイク」と呼んだ様々な大きさのピクセルは認知プロセスを分解した結果として現れた表象なのである.

《A cracked window, sliced》のひび割れとモザイク🪟

エキソニモ《A cracked window, sliced》2020

フランスの哲学者のフランソワ・ダゴニェは,モノを統一体として捉えるのではなく,様々な要素から構成された存在として捉え,「接着」をあたらしい物質の重要要素として捉えている.私は以前,ダゴニェの考えを使ってエキソニモの《Click and Hold》という作品を分析しているが,彼の考えは,統一体として考えられている「視界」をカットアップしている「Sliced (series)」を考えるヒントも与えてくる.4 ダゴニェは『ネオ唯物論』の「物質と現代テクノロジー」と題された章で,芸術ではなく現代テクノロジーにおける「結びつけるか,切り離すか」,つまり「カットアップ」について以下のように書いている.

本書は,溶接と解きほぐしというこの二つの操作に依拠するが,これらの操作は分子レベルで把握されたものである.現代人は,先人がたんに包括的で,肉眼によって可能な仕方で,つまり実際のところ不完全な仕方で遂行していたことを,微細なレベルで行うことに成功した.(a)一方で,断片の結合である.たとえば,鎹による接合,柄付け,鋲打ち,ボルト締めであり,合金製造,乳化,化合物の産出,吸収もそうである.例を挙げればきりがない.(b)他方では,分離である(木を裂く,石を細かく砕く,挽く,抽出する,濾過する,分割する,引き剥がす,上澄みを取るなど).結びつけるか,切り離すかである.しかし伝統的な製造が,とりわけ外部を加工したのに対して,後で見るように,現代の製造はこの外側の「内部」に挑戦する.5

フランソワ・ダゴニェ『ネオ唯物論』

ダゴニェが書くように現在の「接着」は,異なる二つの物質の表面を削り,その「内部」を撹拌して,分子レベルで接合する「摩擦攪拌接合」と呼ばれる手法や,DNAを精密に「カットアップ」すると言える遺伝子編集技術「CRISPR」に当てはめることができるだろう.さらには,ハードウェアの「内部」で作動するソフトウェアレベルでのデータの結びつけが多く起こり,その最たる例として,ChatGPTを支えている大規模言語モデルによる言語データのあたらしい「カットアップ」が起こっていると言えるかもしれない.このように現代においては,ハードウェア,ソフトウェア問わずその内部での「カットアップ」が生じているとすれば,ダゴニェが物質の「内部」というものは,ヒトの内部で生じている認知プロセスにも適用できるだろう.

ダゴニェが指摘する物質の外部と「内部」の区分けを《A cracked window, sliced》に当てはめると,窓のひび割れが外部の分離であり,複数の解像度は「内部」の分離であり,かつ,断片の結合だと考えられるだろう.6 「窓」は家の外と中とを隔てつつ,繋ぐインターフェイスであり,物質的なものだけではなく,ヒトの眼は外界と意識とをつなぐ「窓」であるというように,メタファーとしても機能している.そのような「窓」をエキソニモは「破壊されたインターフェイス」のモチーフとして採用した.「ブルックリンの駅で見つけたひび割れた窓ガラス」に入ったひびは窓ガラスから見える世界に「ひび」を与えるものである.世界は窓ガラスというインターフェイスとともにひび割れてしまう.これも世界の見え方の大きな変化ではあるが,すべてが物質の表面で反射した光がひび割れたガラスを透過してきて生じて現れたものであり,全ては物質の外部で起こっている.物質の外部の出来事をエキソニモの眼が捉え,視界を形成し,その視界をデジタルカメラがデータとして記録する.エキソニモは記録された高解像度表象を複数の解像度の表象にして重ね合わせて,それらを削っていく.

物質の外部で起こった事象を記録したデータを削り,複数の解像度の重なりが生じてはじめて,画像の「内部」と言えるものが現れる.なぜ複数の解像度の重なりから現れる表象を画像の「内部」と見てしまうのかを《A cracked window, sliced》のモチーフである「窓」は教えてくれる.「窓」は私たちの「眼」のメタファーとして機能して,そこに現れた表象とヒトの内部で生じている認知プロセスとを重ね合わせる.《A destroyed computer mouse, sliced》,《A shot computer keyboard, sliced》を論じているときには明確ではなかったが,《A cracked window, sliced》の「窓」は外部と「内部」との境界を曖昧にして,私が見ている「視界」が外部の世界の写しではなく,「内部」の認知プロセスから生じていることを示す.窓の向こうの空間ではなく,窓を見るこちらの空間にひび割れた窓とその向こうの風景をつくりだしている誰かがいるのである.エキソニモはこの誰かが持つ一定の「厚み」を伴う認知プロセスを複数の解像度の重なりに置き換えて,それを「削る」ことで画像の「内部」として露出させたのである.

認知プロセスという「内部」を現した画像は,鑑賞者に物質の外部を現した画像を見ているときとは異なる作用を及ぼす.《A cracked window, sliced》を見ていると,最背面にある色面が最前面に見えたり,3層目のモザイクも最前面に来て,ひび割れを見えなくしていく.物質の外部で生じていた「ひび」という「寸断」が,異なる解像度を同時に表示することによって生まれた「内部」によって覆われる.このとき画像の「内部」として現れているのは,ピクセルがもつ色情報から現れる色とともに,原理的には世界をサンプリングする点にすぎず形を持たないとされるピクセルに形を与えるグリッドのラインである.サンプリングの点であるピクセルに形を与えるラインが描かれる密度は通常は一定であるが,複数の解像度が混在するエキソニモの「Sliced(series)」ではその密度はバラバラになっている.ラインが均一に現れないようにすることで,エキソニモはピクセルのラインを露わにするとともに,それらを「単位」以上の存在にしている.ドット絵にもピクセルのラインは現れるが,それは一定のリズムで現れる表象の「単位」として機能するが,「Sliced(series)」はその解像度におけるピクセルの大きさの「単位」であると同時に,複数の解像度が重なり合っているために別の意味が生じている.だから,私はピクセルを一定の大きさで区切ることができ,「モザイク」や「色面」という異なる言葉でそれらを呼べたと言える.そのとき,ピクセルはサンプリングされた情報としての点でありながら,物質的にも,現象的にも「ライン」を持った存在としても現れるのである.

ここで,私やあなたの視界にもピクセルが示すようなラインは現れているけれど,認知プロセスによってそのラインは世界を認知するために余計なものとして視界から盲点のように消去されていると考えられないだろうか.認知プロセスは眼の構造上生じる暗点を,恐らくこのように見えているだろうと推論した表象で補修してしまう.盲点のように見えない部分を見えるように補修してしまう認知プロセスとは逆に,私たちの視界は離散的表象の区切りのラインを見えないように「盲線」処理した結果,「連続的表象」のように見えているに過ぎないのではないか.実査には存在しているピクセルが見えないディスプレイをAppleが「レティナディスプレイ」と呼んだのと同じように,私たちは「盲線」処理された「連続的表象」を「視界」と呼んでいるに過ぎない.このように考えると,エキソニモは「連続的表象」の「盲線」処理を無効化するために「視界」をカットアップしていき,離散的表象に戻した表象をつくっていると言える.「盲線」処理の無効化を実行するためには,コンピュータとディスプレイとの組み合わせがつくるピクセルの集合体を異なる大きさで区切るための複数の解像度が必要なのである.複数の解像度を混在させることで,情報的存在であるピクセルに物質的にも,鑑賞者の意識内に生じる現象的現れにも「ライン」が与えられていくことになる.そうすると,ピクセルは世界をサンプリングするかたちを持たない点ではなくなり,ディスプレイに物質的に存在する「四角」の集合体となり,認知プロセスに現象的存在としても離散的表象の「色面」や「モザイク」となって現れるようになるのである.

「盲線」処理を無効化することで,物質の現れをつくっている微細な「ピクセル」の集合という高解像度の現れも,「モザイク」や「色面」という低解像度の現れもすべて情報的現れとして同列の存在として,ディスプレイを埋め尽くすようになる.これらは同一の物理状態から得られた情報に基づいて出力された別の現れであるため,その位置関係がうまく捉えらないまま認知されて,手前にあったものが奥になり,奥にあるものが手前に出てくるように感じてしまうようになる.

「Sliced(series)」を論じた最初の回で、私は次のように書いていた。


エキソニモ《A destroyed computer mouse, sliced》2020の部分.
モザイクの方が手前にあるように見えている

最後は,マウスの右側の破片が散乱している箇所を見てみたい.細かいプラスチックの破片が散乱しているなかに白い四角の表象とそれよりは小さい四角のモザイクで構成された表象が見える.これまで見てきたモザイクは連続的表象の奥に位置していたが,ここでは連続的表象として示される破片が小さいために,モザイクの方が手前にあるように見えている.それは,遠くにあるものが小さく見えるということに基づいて勝手に認識されているようである.しかし,実際には破片が手前で,モザイクが奥なので,このことを意識して,位置関係を戻そうと見てみる.しかし,それらの位置関係は簡単には戻らない.位置関係が戻らないまま,プラスチックの破片というモノとそのモノから得られた視覚情報から生じたモザイクとでは,表象という身分は同じだが連続的な表象はモノであり続けるのに対して,モザイクになった表象はモノではなく,情報という存在として示されることになり,遠近法は適応できないので,手前に見えるのは当たり前なのだとも考える.どのような理由があるかは正確にはわからないが,一度でもモザイクが手前に見えていると見てしまったら,モザイクは連続的表象の奥にあるものだといかに強く意識しても,モザイクが前に出てきて見えてしまう.認識の底の方にあったモザイクが,手前にやってきて,世界の連続的表象が奥にあるようにしか見えなくなる.7

フラットネスをかき混ぜる🌪️(四)認知負荷ゲームとしてのエキソニモ「Sliced (series)」(1)──《A destroyed computer mouse, sliced》を見る体験を記述する👀📝

この記述は,「Sliced(series)」が示しているのが「視界」のカットアップだと考える前のもので,私の認知プロセスもまだまっさらの状態であったときのものである.それでも,複数の解像度が混在することで,画像の複雑さが増し,認知プロセスに負荷がかかり,これまでになかった仕方で画像を認識していることが確認できる.ここから考えられるのは,高解像度であろうと低解像度であろうと,視野を同一解像度で覆ってしまうことは,実は認知の可能性を狭めていると言えるのではないだろうか,ということである.アーティストで批評家のヒト・シュタイエルは「貧しい画像を擁護する」で高解像度画像へのカウンターとして低解像度画像を「貧しい画像」と呼び,インターネットが当たり前になった状況に即したあらたな意味を見出した.低解像度画像に対してはどこかに「高解像度画像=オリジナル」があるという認識が対として存在しているが,シュタイエルはこの認識を間違ったもとして糾弾して,低解像度画像はネット上を隈なく「流通」していくという高解像度画像とは存在意義を持つと,彼女は主張する.8  この主張と同じように連続的表象で覆われた視界を写し取る高解像度画像のみに価値を見出すのではなく,レティナディスプレイ以後の高精細なディスプレイで擬似解像度を自在に設定するのが当たり前になった状況に即して,複数の解像度が混在して離散的表象も示す画像に別の価値を見出す必要があるだろう.これまでの写真や画像は世界を視界と同じように写しとる同一解像度で,可能な限り高解像度であることが最も重要とされてきたが,これは世界を外部を写しとってきたに過ぎないと言える.エキソニモの「Sliced(series)」が示す複数の解像度をもつ画像は,画像に「内部」をつくり,認知プロセスというヒトの内部に作用していく点にこそ価値があると考えられる.エキソニモは「デジタルイメージの奥に潜む何か」として,デジタルイメージを見るヒトの視界を形成する「ヒトの認知プロセス」を炙り出したのである.写真や画像は複数の解像度を活用して複雑さを増すことで,世界の外部を写しとるだけではなく,ヒトの認知プロセスという「内部」も同時に現すものになっていくのである.

神経科学や意識研究の進展により,ヒトが世界を認知するメカニズムが明らかになりつつあるのに呼応して,デジタルイメージは世界の外部を写しとるだけではなく,意識の内部にアクセスしていき,普段は意識できない非意識領域を露わにしていかなけれなればならない.それはヒトの認知プロセスに現れては消えていく離散的表象を表現することであり,ヒトはその表現を体験して,神経科学や意識研究の実験とは異なるかたちで自らの内部で現れている情報的存在を検出できるようになっていく.そこで検出される情報的存在の例としては,冒頭で私が記述した認知負荷ゲームの結果として現れた事物の縁のモザイクであり,瞼を閉じると現れる単調な色の塊が挙げられるだろう.そして,レティナディスプレイと対になるものとして瞼を閉じた状態を「解像度」の潰れと考えることは,世界を離散的な情報の集合として認知していくことにつながっていく.エキソニモがピクセルと解像度で構成された物質的状態に縛られない世界認識を可能にする表象システムをカットアップして,画像の「内部」を露わにした「Sliced(series)」の3作品は,複数の解像度を持たないという意味で「フラットネス=単調さ」を示す「盲線」処理連された「連続的表象」が張り付いた「視界」をかき混ぜ,私やあなたが自らの認知プロセス内部に現れている複数の情報的存在がつくる複雑な離散的表象の組み合わせを検出する機会を提供してくれる.これは世界を離散的に捉えていくためのトレーニングなのである.

  1. 水野勝仁「フラットネスをかき混ぜる(5)認知負荷ゲームとしてのエキソニモ「Sliced(series)」(2) ──《A shot computer keyboard, sliced》から認知プロセスを透かし見る👀」,2023年、https://iiiid.photography/1781(最終アクセス 2023年11月18日)

  2. エキソニモ「Sliced (series) 2020」,エキソニモ UN-DEAD-LINK アン・デッド・リンク インターネットアートへの再接続,東京都写真美術館,2020年,https://topmuseum.jp/un-dead-link/works/sliced/(最終アクセス 2023年11月18日)

  3. 星野太「カットアップ」、Artwords(アートワード),https://artscape.jp/artword/index.php/カットアップ(最終アクセス 2023年11月18日)

  4. 水野勝仁「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳 第8回:「デスクトップ上の正しい角度」で描かれたカーソルがつくるあらたな加工物」、MASSAGE、2019年、https://themassage.jp/archives/13078(最終アクセス 2023年11月18日)

  5. フランソワ・ダゴニェ『ネオ唯物論』,大小田重夫訳,法政大学出版局,2010年,p. 219

  6. 前回「平井靖史の『世界は時間ができている』に出てくる「現在の窓」という言葉とともに「Sliced(series)」で最後に残した《A cracked window, sliced》を分析していきたい」と書いたけれど、この考察はできなかった。

  7. 水野勝仁「フラットネスをかき混ぜる🌪️(四)認知負荷ゲームとしてのエキソニモ「Sliced (series)」(1)──《A destroyed computer mouse, sliced》を見る体験を記述する👀📝 」,2022年,https://iiiid.photography/2022-11/(最終アクセス 2023年11月18日)

  8. Hito Steyerl, ’In Defense of the Poor Image’’ in “e-flux Journal issue #10”, 2009, https://www.e-flux.com/journal/10/61362/in-defense-of-the-poor-image/ ( (最終アクセス 2023年11月18日)


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