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137:景色がバルクを持たないように,注意深く,ひとつのサーフェイスとして切り出し,物体化する

目の荒神が言っている「「私たちは,海の景色そのものに近づくことは出来ない.海に近づけばそれは波になり,さらに近づくと水になる」ということを,物理学者のカルロ・ロヴェッリが『時間は存在しない』で書いている「いかにも「物」らしい対象でも、長く続く「出来事」でしかない」や「あの雲の輝く表面はどこに行ったのか.消えたのだ.変化は徐々に進み,霧と澄んだ空気とを分かつ「表面」はどこにもない.あれは幻だったのか.いや,遠くから見た光景だったのだ」という視点から考えれないだろうか.

実際さらに細かく見ていくと、いかにも「物」らしい対象でも、長く続く「出来事」でしかない。もっとも硬い石は、化学や物理学や鉱物学や地理学や心理学の知見によると、じつは量子場の複雑な振動であり、複数の力の一瞬の相互作用であり、崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程であり、惑星上の元素同士の相互作用の歴史のごく短い一幕であり、新石器時代の人類の痕跡であり、横町のわんぱくギャング団が使う武器であり、時間に関する本に載っている一つの例であり、ある存在論のメタファーなのだ。そしてそれは、わたしたちが知覚している対象より、むしろ知覚しているこちら側の身体構造に依拠したこの世界の細分化の一部であり、現実を構成する宇宙規模の鏡のゲームの複雑な結び目なのである。この世界は石ではなく、束の間の音や海面を進む波でできている。位置No.1072/2954
高い山のうえから見ると,谷は白い雲海に覆われている.そしてその表面は,一点の曇りもなく光り輝いている.そこで谷に向かって歩き始めると,空気は湿り気を帯び,空は青さを失ってぼんやり曇り始める.ふと気がつくと,わたしたちはすでに薄もやのなかにいる.あの雲の輝く表面はどこに行ったのか.消えたのだ.変化は徐々に進み,霧と澄んだ空気とを分かつ「表面」はどこにもない.あれは幻だったのか.いや,遠くから見た光景だったのだ.よく考えてみると,どの表面でも同じことがいえる.ここにある硬い大理石のテーブルも,わたしたちが原子レベルに縮めば,霧のように見えるはずだ.この世界のすべてのものが,近くで見るとぼやける.山は厳密にはどこで終わり,平野はどこから始めるのか.砂漠はどこで終わり,サバンナはどこから始まるのか.わたしたちはこの世界を大まかに切り分け,自分にとって意味がある概念の観点から捉えているが,それらの概念は,あるスケールで「生じている」のだ.位置No.1421/2954

《景体》を見ているときには,この引用の順番が逆になる.私たちは,多くの物体で構成されていながら,それらが「粗視化」されて,ひとつのサーフェイスとなった「景色」に近づき,気がつくと,その中へと入っている.そして,サーフェイスとして「粗視化」されていた多くの物体を見る.これらの物体は「景色」というサーフェイスを形成するバルクである.バルクとしての物体を見るときには,さっき見ていた「景色」はなくなり,視界一杯の物体の「薄靄」の中にいる.さらに,その物体のサーフェイスの奥を見ようとすると,そこには原子が振動していて,さらなる「薄靄」を形成している.しかし,それを私たちは見ることはできない.物体は「出来事」として,そこに生じているが,私たちはそれを「物体」としてしか見れない.このプロセスのどこかで,景色がバルクを持たないように,注意深く,ひとつのサーフェイスとして切り出し,物体化したのが《景体》だと考えられるだろうか.


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