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018:ヒトの身体と周囲の空間のバラバラ化

VRについて考えていて、VRはこちら側のヒトを向こう側にそのまま移そうしている感じがあると思った。けれど、カーソルはヒトの身体を一つのパーティクルにしてしまう。身体がパーティクル化している。身体は身体のかたちのままではなくて、指、腕、足、胴体、頭と各部位に別れていて、その指だけが、ディスプレイ上に↖️として表示される。

GUIにおいて身体はパーティクル化されていた。知覚原理としての身体は、身体を分割して、ディスプレイに移していた。身体は↖️になって、点を指している。しかし、ディスプレイから↖️はなくなってしまった。スマートフォンになって画面全体が身体と連動するようになり、身体全体がディスプレイのピクセルというパーティクルに連動するようになったといえるかもしれない。身体は点で対応しているが、画面が面になったということだろう。パーティクル化した身体が画面全体と連動する。パーティクル化した身体が画面全体に振り分けられているのだろうか。そんなことはないけれど、画面全体、そして、スマートフォンを持つ身体全体との関係で考えないといけないけれど、最終的には、指と画面との関係で身体のパーティクル化を考える必要があるかもしれない。

しかし、指によって行為の最小化が起きているとすると、スマートフォンの画面全体のカーソル化は、行為に時間軸を導入したというか、行為がスイッチのオンオフというわけではなくて、そのあいだの過程も重要になるようになった。それはいいとして、身体がパーティクル化して、画面全体との関係で行為をするようになって、画面全体をピクセルの集まりだと考える認識のパーティクル化が起こったと言える。行為と認識とがともにパーティクル化した。計算可能なピクセルを基点にして、行為も認識も自在に変化できるようになった。画面に対しては、指だけがアクセスできるようであるが、実際は、指であろうが、頭であろうが、どこであってもいい。単に、指が一番「パーティクル」的なだけという理由で、画面にアクセスできていると考えたほういいだろう。

カーソルと化した画面全体でヒトを覆ってしまったらどうだろう? このように考えると、「ゼログラビティ」の撮影で使用されたライトボックスは、パーティクル化した身体に適した環境をこちら側に構築していると言えるのではないだろうか。ここでの身体はリグに固定されて、行為の範囲は最小化される。そして、周囲のLEDパネルとロボットアームにつけられたカメラが最大限に変化して、ヒトを重力から解放した映像をつくる。そして、ここで重要なのは、重力から解放された映像をつくるために使われるのが「顔」だけだということである。身体から顔だけが抜き出される。最終的にコンピュータで処理される身体は「顔」というひとつのパーティクルとなっている。もちろん、顔自体もピクセルの集積として表示されるけれど、身体のパーツが切り出されるという意味で、パーティクルとなっていると言えるだろう。身体はコンピュータで使用されるための各パーツに分割されている。

さらに興味深いのは、LEDパネルもモジュール化していて、個別に動かすことができる。身体を取り囲む空間自体がパーティクル化していて、バラバラになる。そのなかにリグに取り付けられたヒトが最小限の行為をしている。ヒトの身体は「顔」だけを必要とされるようにパーティクル化し、周囲の光を放つLEDパネルもまたパーティクル化して個別に動かすことができる。空間自体をバラバラにする。そして、バラバラの空間のなかに最小限の行為しかできなくなったヒトが置かれている。そうして、重力から解放されたような映像が出来上がる。

カーソルが身体をパーティクル化したように、ライトボックスは身体をパーティクル化して、ライトボックスという環境自体もパーティクル化しているといえる。そうして、ヒトは重力から解放される。しかし、それは、まだパーティクル化した状況、つまり、映像でだけである。それでも、映像を使えば、身体と環境とをバラバラにすることができただけでもいいのではないだろうか。最終的には映像になるけれども、その制作過程において、ライトボックスというヒトの身体をパーティクル化できる環境を映像のこちら側である物理空間に構築したことは、ヒトの身体と周囲の空間のバラバラ化を考えるために小さくない一歩だと考えられる。

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