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022:最小化した行為から少し復元された行為とそれを可能にする身体

カーソルがなくなった時点で、ヒトとコンピュータとの対話の場としてのインターフェイスはなくなったと考えてみたい。インターフェイスは、コンピュータといモノのサーフェイスとなった。ハードウェアとソフトウェアとがつくるひとつのサーフェイスとして、そこにある。けれど、それはソフトウェアが関わっているために、単なるモノとしてあるわけではない。ヒトの行為を導く、動きをする半自律的な存在の一つのサーフェイスとして、ディスプレイがある。

それはモノであるから、ヒトとカーソルとがつくってきた行為の履歴は必要としない。ヒトとモノとのあいだの行為の履歴の方が、ヒトとカーソルとの連動による行為の履歴よりも圧倒的に長いからである。だから、スマートフォンはマウスとカーソルの体験がなくても使える。しかし、スマートフォンの開発の際には、カーソルの体験が活かされているとすると、カーソルの体験の履歴は、モノのなかに入り込んでいるとも考えられる。

ヒトとカーソルとのあいだの行為は、ボタンを押すという最小化されたものであった。ヒトの身体はミニマルになっている。けれど、ここではヒトの元の生物学的身体を借りてきているのではない。知覚原理としての身体、コンピュータとともにあるパーティクル化した身体が、そこにある。それは、ボタンを押すという行為が推し進められたひとつの身体のかたちであるといえる。

タッチパネルはパーティクル化した身体の行為を、生物学的身体の行為に復元しようとしていると考えられるのではないだろうか。ヒトの生物学的身体に基づく行為を、ジェスチャーとして借りてくる。大元はディスプレイのサーフェイスでおきるパーティクル化した身体の行為ではあるが、そのときに点の先にヒトの身体がある。それは現状の身体とは異なるかもしれないが、パーティクルとなって最小化した行為から少し復元された行為とそれを可能にする身体がそこにある。パーティクル化した身体が生物学的身体を借りて、行為を行うのが、スマートフォンのディスプレイがモノのサーフェイスになりつつあることを示していると思う。そのときのサーフェイスは、モノとして独立したものではなく、ソフトウェアがつくる1点の動きが画面全体=サーフェイスと連動するものになっている。3次元空間が二次元平面に縮小されて、点が面に連動するなかで、奥行きが捨象されたサーフェイスが成立する。

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