人文系シンポジウム「創発する自然・文化」概要

2019年2月12日に「創発する自然・文化」と題して早稲田奉仕園にて開催した人文系フェス的シンポの概要をお伝えします。

今回のシンポの紹介文は逆巻しとねさん主催の「文芸共和国の会」のHPにもありますのでご参照ください
http://republicofletters.hatenadiary.jp/

(逆巻しとねさん報告)

 逆巻しとねさんの報告はスケボー・アーティストBABUを紹介して、活動としての「ストリート」の意味と意義を問い直す報告でした。まず「ストリート」とは何か、という点について1990年代からの毛利嘉孝や小田亮の議論を経てバトラー『アセンブリ』にいたる、動線を形成する公共の場としての定義を提示して、特に現代においては、路上の役割ははもはや移動のためだけの通路として切り詰められていることを強調されました。そしてそこを表現の場とすることで、そこから奪われてしまった公共性を取り戻す試みとしてBABUの活動へと接続します。逆巻さんはスケボー・アーティストBABUの活動を、ストリートとは見なされないところにストリートを見出してゆく“streeting”として紹介します(逆巻さんが研究対象(というより目標?)とするダナ・ハラウェイのWorldingを用いた語ですね)。
 BABUの作品表現の一つとして、街中を線を引きながらひたすら滑るという映像を紹介されましたが、それは競技化されたスケボーに代表される規格化に対抗して、スケボーに本来備わっていたはずの「ストリート」を取り戻そうとする活動であると逆巻さんは解説します。それと関連して、原発のある双葉町や地震後の熊本を滑る映像作品も紹介してくれました。またBABUは被災地廃材をスケボーに加工して販売するなどもしているそうです。
質疑では、「道ははもともと公共的なものでは?」というコメントが出され、路上がかつて持っていたそのような意味が現代では規格化と整備された「きれいな道」へと変わってしまっていることも確認されました。また、すべてがストリートという主張がなされる一方、それは「舗装された道」に限定されているとも言えるのでは、というインフラの議論にも関わる質問や、disability studiesの観点から、「現れられない」もののための場が常に存在することも念頭に置いておくべきという提言もなされました。

<文芸共和国の会HP>
http://republicofletters.hatenadiary.jp/

<BABUの活動についての参考資料>
http://tomagazine.jp/event/7355/

https://www.cinra.net/interview/201712-sidecore?page=3

(西亮太さん報告)

つづく西亮太さんの報告は、長年のご関心であるポストコロニアル批評や炭鉱文化研究に基づきながら、「エコ」と「コモンズ」そして「所有と非所有」の可能性をめぐるものでした。まず日本で特に強調される「エコ」という語法にはエコロジーとエコノミーがあいまいに含意されることから、ここに含まれる、環境についての活動を経済活動の内部で解消しようとする姿勢を析出し、それとは別様のあり方の必要性を述べられているように思われました(このあたり、理解のおよばなくなった私の推測ですが・・・、そのあり方が報告の中で強調されていた「連帯」と「コモンズ」に関わるのかなと思いました)。
 その補助線的な例として、ギャレット・ハーディンの「コモンズ」の議論が紹介されていました。共有地における「自由」とは何か、をめぐるこの議論では、個人の自由を最大化した結果、それまで誰のものでもなかったところが、誰かに所有されるようになってしまい、共有地が壊れてしまうという結論が導き出されるのですが、この議論自体は現代ではかなり批判されながらも、今でも何らかの形で再利用されていることが指摘されます。その一方で、実際のコモンなものは一定の条件のもとにしっかり管理されてきたのではないか、という点にも目が向けられます。
 それでは、我々はどう「連帯」すればいいのか、と西さんは問いかけているように思われます。そしてそれを考えてゆく道の一つとして、森崎和江の「非所有の所有」という考えが紹介されました。「非所有の所有」を武器とする、非所有の所有こそ、革命を経過した未来社会における物質所有のあるべき形態といった言葉が紹介され、非所有の所有の具体化を目指して行くことが強調されました。

<西さんによる批評キーワード事典「エコ」の項目>
http://www.kenkyusha.co.jp/uploads/lingua/prt/18/keyword1902.html

<西さんによる難民アートプロジェクトの紹介記事>
https://note.mu/mag_kokko/n/n777a0716d093

(石倉敏明さん報告)

 三番目の石倉さんのご報告は「朽ちることと土に還ること」をテーマにして、人間と環境との循環をめぐるスケールの大きなものでした。現代人の食が「燃料補給のような食事」になっていることを指摘して、それとは対照的に神事などに組み込まれている「他者の死骸を食べる行為」には生命を尊重する供養思想が込められていることを指摘します。その一例として、神社で催される、山のシシ(猪)や海のシビ(マグロ)が交換される海幸彦と山幸彦の儀式が紹介されて、「地域食とは土地の精霊を食べること」というテーマが確認されました。そして、食物を生み出す土は内臓に対して「外臓」と言えるのではないかと提案されます。
 石倉さんの研究活動の関心として、土から生まれたものが朽ちて、ふたたび自然に帰ってゆく循環のプロセスがあって、藁で作った虫を飾って土に還してゆくという儀式を紹介して、人と自然との間での循環が我々の生活の基盤にあることを確認します。また、循環というだけでなく、この内(臓)と外(臓)との「コンタクト・ゾーン」というモデルは、ご自身の芸術家たちとの協働の鍵の一つにもなっているようで、動物や害虫などにも「人間との共有点」を認めて、朽ちてゆくものをアートに導入する試みも紹介されていました。そのほかにも、八重山諸島で起こった地震のために運ばれた津波石の調査についての紹介など石倉さんの多彩な活動についても紹介してくださいました。
 質疑では、異界と交わる時の身体感覚の変化はどのようなものか、という人類学寄りの質問も出されて、食べ方の「作法」(食べる行為に対する「ストーリー付け」)によって身体感覚も変化するのではないかと応えられていました。
 また、全体討議では所有と非所有の問題について、それは意識の持ちようなのかという、すぐには答えのでなさそうな大きなものも出されていました。

石倉さんの活動概要
http://www.akibi.ac.jp/teacher/7039.html

<なまはげ文化人類学(対談)>
https://nanmoda.jp/2018/02/1441/

<アート・プロジェクト「精神の<北>へ」>
http://spirit-of-north.net/about/

 今回は人文系の研究者三名による一日限りのセッションのようなシンポが実現しました。各報告の一端は上の拙いまとめで示している通りですが、現場での熱はとても伝えられるものではないので、またこのような機会があればぜひお越しいただければと思います。そのような意味では、今回繰り返されていた、「ストリート」や「連帯」、「コンタクト・ゾーン」、「協働」する具体的な形を人文系分野の中でこれからも模索してゆくきっかけになれば良いなと思います。

(文責: 三村尚央)


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