日記 22.03.27 日
朝。目覚めて、ベッドのなかでスマホを見ると、ある人からLINEが届いていた。あなたのことを考えていた、とあって、あなたのことを考えていたらこんな言葉が浮かんだ、と単語が羅列してあった。
魔術
魔法陣
図書館
水盆
方位磁石
ちりめん素材の着物
アリの巣の断面
シンセサイザー
メトロノーム
咳払い
虫眼鏡
プレパラート
蜘蛛の巣
安楽死
煙突
歯車
油断
放蕩
木陰
葡萄
蔓
藤
無花果
黒塗りの漆器
ビードロ
蓑虫
蜻蛉
北風小僧の寒太郎
狐の嫁入り
蓮の花
包丁
砥石
懐中時計
数学
哲学
法則
ゴッホ
マティス
クリームソーダ
その人にとって、おれは、そういう「色合い」であり、「調子」であり、「変化」なんだ。そう思うと、自分が溶けだして∞に広がっていくような幸福感に包まれた。
ああ、ありがとう。最高のラブレターです。
おれを好きになる人は、おれに何を求めているのだろう。たぶん、おれとセックスがしたいのでも恋がしたいのでもない。セックスはするし、恋もするけど、そういうことじゃない。
おれを好きになる人は、例外なく、自分自身に強烈な興味を持っている。つねに激しい変化のなかにある過剰な人だ。だから、おれのなかに、未だつかみきれていない自分の像が映るのが見たい。
おれはその人の可能性を映し出す鏡なのである。
もっとも、それだけでもない。まあ、こういうことは言い切れるようなことでもない。
嬉しいことがあると、胸いっぱい嬉しさで満たされて溢れ出す。
満たされるとは、今だけになる、ということだ。
今という時間は、お風呂のお湯が溢れ出すようにつねに溢れ出している。湯船に浸かって、お湯がザバアッと溢れ出す瞬間、今という時間は、その瞬間の連なりである。
今日、午後読んでいた上田信治の『成分表』というエッセイ集に、こんな一節があった。
川や海の水面に太陽の光が反射して動いているところを見ると、私たちはたやすく感動してしまう。夕方はもちろん、午前や午後の光もいい。散乱する光線が「空気」を清冽にするように感じて、深く息を吸い直したりする。
そして話はここからなのだけれど、私たちは、非常にどうでもいい水と光、たとえば空港ロビーの人工池の表面に、天井照明の反射光がキラキラ動いているのを見ても、まったく同じように感動する。
見つめることさえすれば、何かがあふれる。そして私たちは、風に吹かれる木の一本をすら、見尽くすことができない。そのことに気づいて以来、それは自分の気に入りの遊びだ。細かく脈動するような反復と、形状をとらえきれない大小の光あればいいのだとしたら。
人の感動には、心が入力で「いっぱいいっぱい」になることだけが、決定的なのえはないだろうか。P94-95
明日どうなるか分からない世界で、その不安にさいなまれることなく、また無理矢理刹那的になるのでもなく、今日という日を十分に生ききることができるだろうか。十分に満ち足りることはできるだろうか。どうやら、それは意外に簡単なことなのかもしれない。
今日のブルボンはいかがなさいます?と脳内執事が聞く。
「今日はどうしたものか、朝からホワイトロリータに心が決まっていたよ」
おお!いつもは必ずルマンドと迷われ、最終的にはアソートに落ち着くという決断力のなさを示されますのに!
「おまえ、丁寧な言葉できっちりdisってくるな……いや、今日はホワイトロリータ一択だ!すぐに用意を!」
はっ。かしこまりました!……という「緩い球でキャッチボールする」ような脳内エチュード、誰もがやってるよね?
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