上妻世海『制作へ』Remix (intro)

1.「見たまま描いている」

アルベルト・ジャコメッティは、モデルを何時間もじっと見つめて、モデルに「なぜ、そんなに見つめるの?」と訊かれると、「いや、僕はきみのことが、まだ見えていないんだ」と答えたのだそうだ。
上妻君は、その逸話を「っていうんですよ、ジャコメッティは(爆)」とじつに嬉しそうに話してくれたのだった。
「あー、それは、かっこいい(笑)」
「かっこいいっすよね(笑)」
ちょうど、彼が、このエッセイを脱稿する、すこし前に会ったときのエピソードである。

見たままに描いたら、こういう表現になった、と、ジャコメッティはそう語る。
つまり、ここで問われているのは「見たまま」「あるがまま」とは、どういうことなのか、ということである。
「実在する」とはどういうことなのか、と言い換えてもよい。
どうも、「あるがままの実在」は、我々が普段見ている事物とは、ずいぶん違う在り方をしているようだ。
だが、そうだとして、ジャコメッティは、なぜ、その「あるがままの実在」を見ることができたのだろう?
この長大な論考の冒頭に、天才達がしばしば皆口を揃えたように語るリアリティの体験ー換言すれば「ヴィジョン」ーとは何か?という問いが置かれている。このことはとても重要なことであるように思われる。

2.魅惑ー見ないことの不可能性

魅惑されるとはどういうことか。それは、目をそらすことができなくなるということだ。例えば、私が、或る女に魅惑される。彼女のことを忘れることができない。彼女が目の前から消えても、私は、彼女のイメージにとらえられたままだ。「見ないことの不可能性」にとらえられる。

この経験から、それではそもそも「見ること」はいかに可能なのかということが逆照される。主体が、見ることも、見ないことも自由に選択できる、その恣意が担保されている限りで、「見ること」は可能になっている。
つまり、目をそらすことができなくなるほどに“強く魅惑されないかぎりで”、主体は客体を見ることが可能になる。
主体と客体が完全に分離している限りで、主体は客体を見ることが可能になる、と言い換えてもいい。

美術批評家の宮川淳は、ジャコメッティの課題は、「見ることの可能性を見ないことの不可能性へと解放することであった」と指摘する。
なぜ「解放」なのかといえば、見ないことの不可能性、すなわち魅惑の体験が先行しているからである。
人は先ず、魅惑される。
だが、その魅惑の体験は、その体験が起ると同時に訓化される。
天才達は、訓化され、隠蔽された魅惑の体験のリアリティを、ヴィジョンに打たれるという形で、折に触れ想起する者であると言えるかもしれない。

3.リアリティの解体新書

このエッセイで、上妻は、ヴィジョンという「リアリティの直観的把捉」について、それは天才と呼ばれる特殊な資質の人びとに特権的なものではないと説く。誰であれ、“ある状態にある”ときは、そのリアリティに触れているのである。その“ある状態”こそが、彼が「制作」と呼ぶ、その状態のことである。
上妻は、「制作の状態」に内在して、内部観測的に、「リアリティの内在論理」を徹底的に明らかにしていく。

制作とは、まず、どういう状態なのか。次の記事では、その要約から始めることにする。

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