魂の故郷

新実存主義者(new existentialist)は、魂の故郷を目指す。

1.力強い遅さへ

イルマ・ラクーザは、長編エッセイ『ラングザマー』で、「ゆっくりした時間、ゆっくりしているけれども過去へ未来へと何千年も跳躍できる力強い『遅さ』」(多和田葉子)へと入っていく、その多様な扉を次々に開いてみせる。
ある片田舎の村の情景について書かれたこんな件があった。

仕事のためにはどうしても出ていかねばならない。行き来して暮らすものもいれば、都会に引っ越すものもいる。しかし、彼らはいつも戻ってくる。この場所が彼らを離さないのだ。
そして、歳をとりたいと思う場所もこの村だけだ。マロニエの林を歩いたり、ボッチャの玉を転がしたり、いろいろな話をしたいと思うのもそう。そして急ぐことなどなにもない。

イルマ・ラクーザ『ラングザマー』

故郷が故郷たる所以は、そこに家族や親戚、幼馴染が住んでいるとか、住み慣れた家や街があるとか、そういった条件によるものではない。
故郷には、別の時間が流れている。その時間に入ると、人は、過去に急かされ未来へ押しやられていく日常の時間を離れ、もっと大きなスケールの「過去へ未来へと何千年も跳躍できる力強い遅さ」を体験することになる。故郷とは、何千年も地続きの「地」のうえに、魂という「図柄」が浮かび上がる、そんなトポスのことをいう。

2.精霊との再会

魂は故郷という地に浮かぶ図柄である。
故郷を離れた魂は、幻のようなもので、あると思えばある、ないと思えばない、というように、なんとも頼りない。魂は、自らのリアルを求めて、故郷を恋い焦がれ、その帰路を探して彷徨う。

フリドリクソン監督のアイスランド映画『春にして君を想う』は、老いた主人公が、幼馴染の老女と、廃村となった故郷の島を目指すロードムービーだ。
帰村の途上、いよいよ目的地である島に着く間際、その海路で、ふたりは船の上から、島で<セイレーン>が手招きしているのを目撃する。船頭は言う-「ただの幽霊だよ」。幻想的で、ひどく感動的なショットだった。

つまり故郷とは、<セイレーン=幽霊=精霊>に再会することのできる場所なのである。
<セイレーン=幽霊=精霊>が遍く存在しうる場所、祖先達が其処彼処に遍在し、森羅万象に精霊が宿る場所、故郷とは、つまりこうした、霊達が賑やかに鳴動するトポスのことなのである。
そのトポスにおいて、魂は、ようやく自らもまたその霊のひとつとして、何千年も地続きの「地」における「図柄」として、自らのリアルを得る。

3.不思議の場所

魂の故郷は“何処に”あるのだろうか?『春にして君を想う』のふたりは、その帰路の途上で、この見馴れた日常の「域」を超え、世界線のその先に進むことで、ようやく故郷に帰りつくことができた。
世界線のその先へ進むこと。故郷-魂がリアルなものとして現れるその位相は、もちろん、この日常と地続きの場所にあるわけではない。

人類学者の岩田慶治は、その位相を「不思議の場所」と呼んだ。そして、近代以前の伝統社会では、誰もがこの「不思議の場所」に生きたと論じた。誰もが魂のリアルを生きた。自らもひとつの魂として、何千年という時間のスケールのなかで、祖霊や精霊と融即状態のうちに生きた。故郷に生きるとはそうしたことであった。

岩田慶治は、近代以前の伝統社会においては、この「不思議の場所」を現象させる仕掛けが作動していた、と説く。「不思議の場所」は、この現実と地続きではない。それは、現実でも、虚構でもない、その二元のあわいに現象するのである。
近代には現世しかない。だが、伝統社会には、現世があれば、必ずその対として他界があった。現世が現実で他界は虚構である、それが近代の捉え方だ。伝統社会では、そんな馬鹿みたいに単純な捉え方はしない。現世と他界の二元があって、その“交わらない二元が交叉する”、その矛盾を乗り越える奇妙な捻じれー結ばれー共鳴のうちに、「不思議の場所」は開く。なんと高度でエレガントな認識であろうか。

伝統社会における空間の構造は二元的である。現世と他界があり、地上と天上の世界がある。娑婆と極楽といってもよい。ふたつの世界は表と裏のように背中合わせになっていて、たがいに顔をあわせることができない。
二つの世界は断絶しているのである。二つの世界をつなぐ橋はない。
しかし、だからといって二つの世界が永久に断絶したままであったら、そこに住む人間のこころに究極のやすらぎはないであろう。世界の分裂が人間の分裂をひきおこすからである。
そこで人間は何とかしておのれ自身のうちに、同時に、二つの世界を映そうとする。二つの世界のただなかで一元的に生きようとする。
そういう一つのねがい、一つの祈りをもっている。その点ではキリスト教といい、原始宗教といっても、少しも相違はない。人間のこころの出所は一つである。万法帰一である。万教帰一である。
二つの世界を一元的に生きようとする。そこに不思議の場所があらわれる。それは、「ねがい」「祈り」の先にあらわれる「偶然と必然のあいだにある絶対自由の世界」だ。

岩田慶治

この「絶対自由の世界」、何が「自由」なのかといえば、つまり魂が自律的なリアルを得る、そのことの「自由」である。魂のリアルを得るために、人は故郷へ帰ることを「ねがい」「祈る」。

だが、いいだろうか、裏を返せば、「ねがい」「祈る」人はみな、故郷から放逐され、故郷喪失者として、所在なき生を生きているということでもある。我々は、皆、つねに、魂を遠くに想起しつつ、故郷へ帰ること「ねがい」「祈る」、そんな故郷喪失者なのである。

私は、故郷に帰りたい。私は、ただ故郷に帰る路を探している。私はひとつの魂となり、多様な霊達と交わっていたい。
この異郷においては、私はつねに「私は誰か」と問われつづける。ところが、故郷では、私は自明の魂で、だからもはや私は私である必要もないのだ。
私が真実生きる意味を知り、真実死を受け入れることができるのは、故郷においてだけである。

4.君が僕を知ってる

RCサクセションに「君が僕を知ってる」という名曲がある。始まりの数フレーズー

今までしてきた悪いことだけで
明日僕が有名になっても
どってことないぜ まるで気にしない
君が僕を知ってる

もし本当にそう感じられる「誰か」と出会えることがあれば、どうか?ーおそらくはとても「静か」になる。
人が考えること、発する言葉の多くは、要は自己弁明、自己顕示だ。

「私はこういう人間です」
「ここに私がいます」
「私ですが、何か?」
「私は私なんです」

ある種の不安、焦立ちに急き立てられるようにして、人は「私」を的確にプレゼンする言葉を捜し続けている。
その言葉が、やむ。
どうでもいい、なぜなら、「君が僕を知っている」。

訪れる静けさは、おそらくとても懐かしい心地がするだろう。
「私が既に常に私である」というそのことは「存在の故郷への帰還」を意味するからだ。
岩田慶治が云うように、凡ゆる存在物は、自らの「故郷」をもつのである。
私は、在る。疑う余地もなく、このように在る。以上でも以下でもない、私は魂と“一致する”。
存在の故郷においては、私はもはや“存在するために”必死に足掻く必要がない。
在ればよい。ただ魂と一致していればよい。

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