漂流日記2020.08.31

矢田部英正『からだのメソッド ー立居振舞いの技術』(ちくま文庫)では、「見えない身体感覚を調えることによって、眼に見えるからだの形を整えること」が目指される。たとえば「背すじ」について考えてみると、眼に見える背骨の形をまっすぐにすることよりも、背筋の「まっすぐな印象」をつくり出すことがより大事にされる。この「印象の形成」という考え方は、「その人がからだの内部にどのような感覚をもっているのか」ということと本質的にかかわっている。
西洋的な、寸法的なプロポーションの優劣とはまったく別次元にある、それぞれの身体の条件に合った「自然体」が目指されるということだ。

この「自然体」を実現するために、例えば、禅宗でいうところの「三調」という教えを参照してみよう。「三調」とは、身体をととのえる「調身」、呼吸をととのえる「調息」、心をととのえる「調心」の三つをもって、修行の基本とするという考え方だ。「調身」とは具体的には姿勢の保ち方、身ごなしのことで、呼吸のととのえかたと両輪となって、身体にある一定のバランスを与えるメソッドのことだ。それに、心の保ち方、これは、私見ではエゴというものの処理の仕方が三つ巴で相関して、中有に遊ぶことの適う存在感が獲得できる。
こういうと、何か達意を目指す厳しい修行の道程が想像されるが、何も禅マスターを目指そうというのではない。ちょっと身体へ向ける意識を変えてみるだけで、世界のあらわれ方がまったく変わってきますよ、という話である。

まず、「調身」、姿勢について考えてみる。「立ち方」「歩き方」「坐り方」である。気張る必要はない。「ちょっと気にとめてみる」という心持で体に接すればよい。一日ほんのすこしの時間でもよい。著者は「からだに気持ちを集める」という表現を使う。これが習慣になると、自然でバランスのよい身体が自ずと調うようになる。その、気持ちの集め方のコツを順に確認していこう。
姿勢において重要なのは、「上虚下実」ということだ。現代の人は、無意識にしていると上半身に意識の所在を置いているが、重要なのは下半身、とりわけ腰から足裏にかけての感覚である。

まず手始めに、立っているとき、足裏の重心位置を確かめてみることから始めてみよう。「右左のどちらの足で立っているのか」「爪先と踵のどちらに体重がかかっているのか」「足首は内側と外側とどちらに傾きやすいか」このことを少し気にとめるだけで、身体が自然とバランスをとるようになるのがわかる。たいへん、おもしろい。無意識でいる自分が、いかに「ただ立つ」ことができていないか、つまり、足の一部に寄りかかって、言わばその一部を杖のようにして立っているのかということがよくわかる。
ヨガを習いに行くと、さまざまな流儀があるだろうが、たいていはまず、足の指をほぐすことにかなりの時間をかける。足指をほぐすと、足裏の感覚に鋭敏になる。少し慣れてきたら、足の親指から小指まで、一本一本単独で地面をつかんでみる練習をする。これはなかなか高度だ。難しい。でも、じつにたのしい。足指の感覚が発達してくると、足裏のどこに重心がかかっているかが、より鋭敏に感じられるようになる。

立ち方で意識を向けるとすぐにその成果が感じとれてたのしいのは、足裏、そして、頭の位置である。まずは、頭の位置を背骨の上にのせるよう意識する。これだけでも背筋が自然に伸びるのがわかるだろう。これは背筋に限らないが、背筋を伸ばそうとして伸ばしてはならない。背筋を伸ばそうとすると肩が力み、重心が上がり、無駄に胸を張ることになるので鳩尾を圧迫して、腰が抜ける。虚勢を張ったような印象になる。そうではなく、単に、背骨の突端に、ちょうど壷か何かを置くように、ちょんと頭を乗っけてやるのをイメージする。それだけでいい。胸や背中を緊張させずに、ストレスレスに姿勢をととのえることができる。
さて、そのうえで、最終調整である。「耳と肩」「鼻と臍」をまっすぐにつなぐ。そうすることで、頭の位置がさらに正確に整うことになる。足裏の重心感覚と頭の位置、とりあえずこの二箇所に意識を向けるだけで、ほとんど労せずにして姿勢が整うのを感じとれるだろう。人間は二足歩行という特殊な姿勢を選んだ動物だ。そもそも四つん這いをベースに進化してきた動物の骨格を、二足歩行という、いわば不自然な型に「流用」しているとも言える。「ただ立つ」というのは、じつはとても高度な技なのである。

四つん這いを二足歩行に「流用」した人間にとって、腰の使い方が、全身の使い方の、まさしく要になる。「にくづき」に「要」、漢字はその辺りの機微をよく表している。
腰は、骨盤から背骨に伸びる骨格で形成されるが、立っていても坐っていても、このどの箇所に負担がかかっているかで、自然体として気持ちのいい楽な体勢を取れているか、一部に居着いた無理な体勢になってしまっているかが分かれる。腰周辺の骨格の構造を、すこしくわしく見てみよう。
人の骨盤は背骨の下底に位置する「仙骨」が、左右の「腸骨」に挟まれる形で構成されている。いわゆるウェストにあたる場所には五つの腰椎骨があって、上から第一腰椎、第二腰椎、と数える。腰椎は胸郭と骨盤とを連結する、動きの多いフレキシブルな関節で、腰回りのスムースな動きを可能にしている反面、外的なストレスに対しては非常にデリケートで弱い面がある。
これに対して骨盤は人体のなかでもっとも大きな骨格で、上半身を支えるのにも、運動上の衝撃にも、他の身体部位とは比較にならないほど強さがある。
骨盤と腰椎とは位置的にはほんの数センチしか違わないが、上体を支える基点が骨盤内にあるのか、それとも腰椎部分にあるのかによって、腰へのストレスに対する明暗は大きく分かれる。腰椎は動きの激しい部位なので、放っておくと、腰椎への過度の負担がかかりやすい。このことが腰痛やヘルニアに繋がる。つまり、ストレスに弱い腰椎部分への負担を軽減させ、強靭な骨盤で上体を支えるような姿勢が、自然体の基本姿勢である。立ったり、坐ったり、要は「ただそこに居る」にも、このことを理解してるのとしていないのでは、そのたたずまいが全く変わってくる。なんとなく飄々と安楽な印象を与える人は、自然体が実現できている。自然体が実現できていないと、どこかこわばったような、一緒にいる人に無意識の警戒心を呼び起すようなたたずまいになる。

「上半身の体重を骨盤で受けとめることのできる脊椎の配置を工夫すること」-自然体とは何かを構造的に言い表すとこういうことになる。そうなると、例えば、猫背の姿勢では、椎間板への圧力が不均衡に偏り、そこへ上半身の重さが集中的にのしかかってくる。腰回りの凝りが自覚されている人の多くは猫背が原因だ。猫背はだめだが、逆に胸を張るのもよくない。胸を張ると、上体を支える基点がウェストの高い位置に上ずってきて、腰椎にストレスがかかる。
腰の基本は、「立ち腰」と呼ばれる体勢だ。骨盤を前傾させながら、腰で状態を支える。肩を上下に動かしてみて、体重が骨盤にのっかる感じがあれば、立ち腰のポジションがとれている。

骨盤で上半身の体重を支える「立ち腰」、日本では一般的に「腰が入っている」と言われてきた体勢とを取ると、必然的に、上半身の背骨のゆがみはなくなる。頭の位置から足裏の重心までが貫通した身体感覚が獲得できる。この姿勢をとると、自ずと、下腹部のあたりに姿勢の中心点が浮かんでくるのが自覚される。いわゆる「臍下丹田」の感覚である。人の手足の動きが、この臍下丹田の「中心感覚」と連動するとき、いわゆる「小手先」ではない動きが実現する。たとえば、茶道で杓を使うとき、一流の茶人は、小手先ではなく、腰から波及するムチのようにしなやかな動作の一環としてそれを行っているのがわかる。
こうしたことが「わかる」のは、自身、その体性感覚をつかんでいるからこそだ。その体性感覚がないと、そもそも、人のたたずまいの滑かさや、その身体運用で実現されている高度な創意工夫などは受け取れない。これは、例えば日本舞踊や歌舞伎、あるいは能楽、コンテンポラリーダンス、あらゆる身体表現は、見る側にそのフィギュールを受けとる体性感覚が育っていないと、きちんと受け取ることはできない。
観る、というのは、ただ視覚で動きを追うことではない。フィギュールを受けとめるには、こちらにそのフィギュールの成り立ちを再構成できる基盤となる体性感覚がなければならない。舞台上のダンサーのように踊れなくてもいいのだが、自らの体性感覚においてそれを受けとるには、観客もまたイマジナリーな領域で共に踊っていなければならない。
自然体は、このイマジナリーな文化空間に参入するためにも、必須の条件であり、だから人は能を見るために、足裏の感覚に敏感にならなければならない。

さて、ここで、話を呼吸に進めよう。呼吸とは、体の内部に「流れ」をつけるということである。生理学的にみると、吸った息は左右の肺胞にため込まれるわけだが、そのときの呼吸筋の使い方によって、お腹が膨らんだり、胸や背中が膨らんだり、またそのことによって血液やその他もろもろのものが体内で活発に流れ始める。たとえば、横隔膜を下に圧し広げると内臓が前にせり出してきて、お腹が膨らんでくる。すると呼吸をしている本人には「お腹に息が入っている」というふうに感じられる。腹式呼吸といっても、もちろん肺で呼吸しているのだが、呼吸に伴う筋肉の使い方が問題とされているのである。
人間のもっとも自然な呼吸は腹式呼吸とされる。乳幼児の子どもの呼吸が腹式呼吸だからである。乳幼児は呼吸器がまだ十分に発達していないので、腹式呼吸で横隔膜を動かしたり、手足を落ち着きなく動かすことで、必死になって体内に血液を流しているのである。横隔膜を動かし、手足を動かすのは、「からだの流れ」を維持するための自然の欲求ということがいえる。大人になっても、神経症的な状態になって、「からだの自然」が弱くなってきたときは、腹式呼吸を意識的に心がけると、体の内部に流れをとりもどすことができるだろう。

人は、行き詰っているとき、煮詰まっているときは、必ず、呼吸が浅くなっている。咽だけで呼吸しているようなとき、まずは胸を開いて胸式呼吸をしてみる。次に横隔膜を使って腹式呼吸をしてみる。さらに臍からその下へと息を深めて、臍下約9㎝くらいのところにあるいわゆる臍下丹田で息をすることにチャレンジしてみる。横隔膜が十分に下げることができるようになると、息を吸うと下腹部が膨らむ丹田呼吸ができるようになる。
普段から腹式呼吸を心掛けていると、丹田は自然と意識できるようになる。いわゆる「丹田を練る」というのは、「自然体をとって、深い呼吸をする」ことで自ずとそれを成している。
自然体と深い呼吸は、両輪となって、心身をととのえる基盤となる。体の歪みや浅い呼吸によって、不安や焦りは増幅される。その増幅のメカニズムが解体される。とはいえ、それで悩みから一切解脱できるわけではない。禅では、「調身」「調息」に加えて、「調心」がそろって、そのトリアーデによって、無駄な悩みから解放されるのだった。
「調心」とは、まあ、宗教的に深く追求していくと果てしがないが、要は、「エゴの働きを主体の位置から外す」というメンタルスキルであると考えてよい。エゴとは本来未来と過去をシミュレーションする演算機械のようなものだ。その作動はやまない。だから、エゴというシミュレーションマシンの作動は作動として、「相手にしない」という態度を身につけるのである。正確には、「相手にしたり、しなかったり」自由に選択できるようにする。エゴの作動に「巻き込まれない」ということである。

さて、自然体で深い呼吸をする、そしてエゴに距離を置くことができれば、身体的なストレスは、消えることはないが、すくなくとも「増幅される」ことはなくなる。身体的なストレスは、最初に筋肉の緊張として表面化して、すんなりした動作を妨げる。それは所作ももちろんそうだが、言動の傾向もまた広義の動作として捉えると、その人の言動もまた体の歪みに大きく影響を受けていると考えられる。さらに、身体的ストレスは代謝や睡眠、肌艶にも大きな影響を与える。年齢より老けて見える人は、総じて、体が歪み、呼吸が浅く、自らのエゴに振り回されている。

先に、舞台芸術や伝統芸能を観るとき、自分のなかに体性感覚ができていないと十分には受け取れない、と書いた。これは、舞台芸術、芸能に限らない。そもそも芸術一般が、どんなコンセプチュアルな作品であれ、何かしらのマテリアルと身体運用との交点において制作される。
芸術に限らず、音楽や服飾や建築、工芸や料理といった分野もまた、事情は同じであろう。人が何かを制作するという場面では、作品の産出と体性感覚の変容、洗練が必ずカップリングされて実現されている。
例えば、女性がメイクをしたり、下着や服やアクセサリーを選んだりする。こうした「制作行為」もまた体性感覚があるかないかで、大きくその「センス」が変わってくる。同じ服を同じような体型の女の子が着ていても、その着こなしに大きな差が出るのは、つまりはある人が体性感覚をつかんでいることによる「たたずまい」が、美となって表出している。一方、どうにも見栄えが悪い女の子は、「たたずまい」がどこかぎくしゃくしている。体軸が歪み、肌艶が悪く、言動に偏りがある。

さて、ここで、能の動きについて考えてみる。能における基本的な動作である「摺り足」を見てみよう。矢田部英正『美しい日本の身体』(ちくま新書)に、その体性感覚の分析的描出があった。

まず足裏の接地感から、左右、前後の体重の配分を均等に整え、重力に拮抗する立ち位置の焦点が定まると、地面から微妙に身体が上昇する感覚が生まれる。骨格の一つ一つが、本来ある自然のバランスを保つとき、筋肉は余分な緊張を強いられることなく、足先のわずかな上昇によって、あたかも水面を滑るように、「摺り足」は軽やかに進む。淀みない軽やかな足運び、重力を感じさせない透明な存在感、どこにも力みのないその身体の構えは、あらゆる質感の気風を体内に孕ませる素地となる。

さらに、著者は、例えば「鐘入り」に向かう緊迫感について、その考察を進める。

鋭く四方へ反転する白拍子の足首、それを導く太鼓の一轟。たったそれだけの動きで、どうして満場を観客をひとつにまとめ上げることができたのか。
ただ、あの足首の動きが、シテの体内に緊迫を高める極めて有効な役割を果たしていることだけは確かだった。
「足首の動き」というのは坐骨神経を通じて腰と直結している。直角に上げた片膝を精確に保ち、足首を極限まで屈曲させると、骨盤の中心から脊椎にかけて激しい緊張が走るはずである。ただし、その単調極まりない動きを舞台上で延々と演じ続けることなど、現代劇の常識ならば考えられないことではなかろうか。太鼓の一打と足首の動きで、芝居の「間」がもつはずがない。しかし現実は、「間」がもたないどころか、すべての観客が息を呑んでその迫真の空白に見入っている。
足首に集約された単調な動作は、その後も私の記憶に留まり続け、激しいステップや絢爛な装置によってスペクタクルを巻き起こすような舞台表現とは、まったく異次元の世界に能楽が依拠し続けてきたことを教えはじめた。つまりそこには静寂のなかでしか語ることのできない何かがあって、動きを抑制することによってかえって強く共振するはたらきが、知らず知らずの内に、私の身体の中でも体動しはじめていたのだった。たった一つの動きに身体を抑制し、無限に広がり出した空白の世界に重厚な緊張を与えたのは、動かさないことによってかえって高められていく見えない内部の動きであり、その深遠な「型」に自らを閉じ込めることによって、「型」と「心」と芸の「花」とは、不即不離のものとして機能し始める。

世阿弥晩年の伝書に『九位次第』がある。役者の芸境を9段階に分類して説いた芸境論である。
この最も高い芸域とされる上三花は、役者の自意識を離れた境地のことで、世阿弥はこの境地を「無文」と呼ぶ。
世阿弥によれば「無文」とは、「どこがどうという理屈のつけようもなく、ただなんとなくしみじみと心に訴えかけるようなもの」ということになる。
天才能楽師、観世寿夫の論書から引く。

「有文」が見た目にも文のある、山あり谷ありという演戯であるとすれば、「無文」は山も谷も表面上には見えないということであろうか。しかし『風曲集』の中では「ただ声の美しさがあるだけで、よくよく聞いていると、たいした感動のないようなものは、学習を積んでいない低次な無文だ」としており、ほんとうの「無文」は、あらゆる面白さ、つまり「有文」であることをことごとくきわめたうえで、無になりかえった「無文」であり、それゆえ「無文」の中には「有文」も同時に含められているのだと述べている。

最初は、自己を確立した芸を創ることが目指されるが、だがそれをなしとげた暁には、そこに自足するのではなく、「個人という小さな枠から、広大な無の世界へと挑戦するのである。しかも自分の外へ向かってではなく、自分自身を完成させて無になるという、内へ向ける方向をとらなければならないのだ」。

私が私でありつつ、その私が中心にはおらず、星座の星のひとつとして存在している、そしてその星座自体は<無>に浮かんでいる、という感覚。
無文への超脱は、そのままユングの個性化(自己化)という議論と通じているのではないかと感じる。自在に実在に交わる自己/無の獲得ということである。
観世は、その「無文」の実例として、故橋岡久太郎の「姨捨」の舞囃子を観たときの体験についてこう語っている。

その中でただ何をするでもなく長い時間舞台の中央に立っているという個所があり、その時分七十歳あまりでいられた先生の、その何もしない姿から感じられる存在感、それをいまでもありありと私は思い出す。それは「姨捨」のシテであるところの、誰もいない山頂に捨てられた老女なのか、月の妖精なのか、または、長い人生を生きつづけてこられた橋岡先生自体なのか、そのどれともつかない大きな塊となって、私に強い感動を呼び起こさせたのである。

能で目指される芸位とは、汎ての有文(ドラマ)を転回した無文の白一色、さらにその向こうに広がる原色に溢れた世界、最終的には言語同断、心行所滅の、私の消失がそのまま私の自在である境域であった。
能が仮面劇なのは、この目指す境域に関わっている。
「私の消失がそのまま私の自在である境域」とは、私が依代となって霊を降ろし、しかもその霊に「乗っ取られない」状態のことであろう。「私でなく、私でなくはない」状態、これこそ「無心の位」であり、「我心にも我にも隠す安心」である。
そして、面とは、私を依代化するための最大の装置なのだ。

能の役者というのは、常に冥暗の世界と現世との中間にただよう霊魂のようなものだから、何らかの思いなり訴えなりを安心して託し、託すことによって、ある呪術力を持たせてもらえると信ずることのできる相手がなくてはならない。それが能面なのだ。

能楽について書いているときりがなくなるが、このきりのない深淵に観客を引きずり込むのが、身体運用の妙である。身体の潜在的な可能性は底知れない深みを持つ。

さて、能の深みを日常生活のなかで実現することはもちろん不可能だ。能は、多様な装置のなかで、その深さ、高みを実現する。ただ、体性感覚を鋭く練っていくことを通して、「日常」もまた、私たちが慣れ親しんだ退屈な時空ではなくなっていくのがわかる。
大きな変化として、体性感覚が高まっていくと、おのずとエゴが後退していく。後退というのは、身体にエゴが溶け込んでいくような感覚になる。それは、意識という司令塔が、身体という機械を乗りこなすという私たち近代人の通常の意識とはまったく異なる意識の様態をもたらす。
何かを「為す」のではなく、何かが「成る」ように状況を整える、耕すという考え方になる。「私がやる」という能動的態度から脱することで、身体が動く、そのことに迷いや躊躇がなくなる。迷いや躊躇は、私が主体になることの波及的悪影響でしかない。
道具の上達が早くなる。何かが成るように状況が整える、という意識の向け方をすると、私が物を使うという構えから、「使う」ということが、物固有の理(ことわり)に沿うことと表裏となる。
つまり、「力づく」ということがなくなる。それは、人に対しても同じように発揮される。フーコーがミクロな権力として論じた人間関係の力学を乗り越える立場を得る。つまり、「型」という身体の自律性をもつことで、「私がやる」という能動ではなく、身体が自ずとそう動くという境域で、他者とかかわることになる。それが、どんなかかわりになるのか、その辺りはまた別の機会に考えることにする。

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