漂流日記2020.09.17

今日のツイートで、おれはおれが好きだ、と書いた。

どんだけ自分が好きなんだよっ!というツッコミをよく受けるが、たしかにおれはおれを熱愛している。
だが、盲信はしていない。いや、というか、まったく信用していない。
まったく信用していない自分のことが、それでも「やっぱり好き」なのである。日々、「いいなぁ、おれ」とにやにやしている。
おれがおれを好きなのは、「かっこいいから」でも「頭がいいから」でも「能力が高い」からでもなく、「なんか好き」なのだ。だから、太ろうがハゲようがボケようが零落しようが、おれはおれを愛しつづける自信がある。
骨董好きの人が、茶碗を手に取って、「姿がいい…この曲線がいい…掌に包んだときのこの収まり具合がいい…」と延々と蕩然としている、それと同じことをおれはおれに対してやっている。「顔の非対称性がいい…甘えたような声もいい…いい加減な性格もいい…」

おれは、自分のことを信用していない。自分が「正しい」ということを信じていない。自分が「すごい」ということを信じていない。だから、人の方が正しいと思うと、すぐに自分の意見を変える。すごい人には、最初から負けていることを認める。あんまり人と張り合わない。だっておれは、正しくない自分であっても、弱っちい自分であっても、そんなこととはかかわりなく、だれよりも自分のことが一番好きだ。
人の承認は嬉しい。特に女の子の承認はどんどん求めていく。おれを褒めてくれ。だっておれは面白いでしょう?ちょっとすごいでしょ?かなり魅力的じゃない?かわいい?かっこいい?すてき?そうでしょう、そうでしょう。ああ、でもね、女の子に承認されなかったからって、それでおれは自分を見限ったりはしない。どんな自分も、おれは好きなのである。だから、べつに無理に褒めなくてもいい。本当に魅力的だと感じた時だけ、惚れてくださいね。

あ、そうだ、前にね、「悪人」というテーマで、こんなツイートをしたことがある。

善人が善行をするのはそれが善いことだからだが、悪人が悪事を働くのはべつにそれが悪いことだからではない。
悪人が善いことをすることも、もちろんある。それは、善行をなそうという動機によってではなく、敢えてそうした言葉を使うなら、つねに個別なるものへの「愛」によってなされる。
善人とは、神にすがり、一般性にすりよって、自己を欺し、他者を裁くファリサイ人である。悪人とは、ただそうでしかない個別性を生きる、無頼のリアリストであろう。
骨董はいい例だ。惚れた物を買おうという時、その物を「理解」しようとするだろうか。逆に言えば「理解」できる程度の物を買おうという気になるだろうか。
理解とは一般性への解消である。善人は他者を理解しようとする。悪人は惚れ抜いたその個別性に、「理解するより的確に応じ」ようとする。
青山二郎、秦秀雄、北王子魯山人、誰でもいい、骨董の世界で名を成した人びとは、見事に悉く悪人である。彼等には、善悪に限らない、世を仕切る一切の解読格子は粗すぎた。「理解」するのでは粗すぎた。物に的確に応じるために、思考より精細に「愛」する必要があったのだ。

人間ってのは、理由もなく生まれてきて、訳もわからないまま生きていかなきゃいけなくて、何も知らされないまま死んでいく存在だ。そんななか「精一杯生きる」ってどういうことなんだろうね。おれは、個別性を無根拠に愛するってことだと思うんですよ。善人は理解しようとする、悪人はただ惚れる。おれはおれという個別性に惚れ込んだひとりの「悪人」なんですね。

自分が死の床に就く、そうは遠くない、その日のことを想像する。
充分長生きした、むしろダラダラと長すぎたくらいだ、最後の10年は余分だったな、等と考える。
それでも、そうか、もう本当に終わりなのだ、と思うと、何が、ということもなく、痛烈に名残惜しくなる。
名残惜しい、という情動によって、生を燃やし尽くす。
燃焼する生の高揚のなかで、死の床にあって、再び、おれは、最初からやりなおす、その端緒に就くのである。
最期の言葉は、「さあ、新しく、始めよう」だ。

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