遊びをせんとや生まれけむ

1.ホモ・ルーデンス

人間は、ホモ・ルーデンスである。人間の特質は、遊ぶことができる、という一点にあると言って、過言ではない。
逆に言えば、遊ぶことしかできない。
人間は、痛みを遊ぶ。苦しみを遊ぶ。陰惨を遊ぶ。嘔吐を遊ぶ。残虐を遊ぶ。絶望を遊ぶ。無限を遊ぶ。

喜怒哀楽も、そのように演じているのである。
自覚の有無とは別に、「演技」をやめてしまえば、人は衝撃や情動を喜怒哀楽の形に編み直すことはできなくなるだろう。
喜びや快楽だけではない、悲しくてやりきれない、怒りに身を震わせる、そのこともまた、人は遊んでいるのである。

遊び、の対義語は、本気・真剣、ではない。
むしろ、真剣に遊ぶことこそ、ホモ・ルーデンスとしての本懐だ。
遊びの対義語は、囚われ・固着である。

2.真剣に遊ぶ

人間関係は、ともすると、すぐにのっぴきならなくなる。遊べてないな、と感じたら、距離を置く。
遊びだったのね、と罵られようが構わない。
「そうじゃないんだ、むしろ、きみとは遊びきれなかったんだよ」

倫理とは、「自らになりきる」ことに求められるべきであろう。人間がホモ・ルーデンスとしての本質をもつのであれば、人間の倫理とは、「遊びきる」ことに求められるのではないか。

大根役者の演技は響かない。喜怒哀楽も嘘くさい。名人の芸は、虚を極めて嘘くささが消える。舞台で役に“実際に”メタモルフォーゼする。
虚構を“遊びきった”ときにあらわれる情動のリアルが「現実」という局所への囚われを破る。
即ち、名人が笑えば、宇宙が笑う。哭けば、宇宙が哭く。
そのように「遊びきる」こと。
名演技を探求する役者のように、例えば「小説を書く」「研究に没頭する」「恋愛に狂う」「犯罪を犯す」「無為を極める」のでなければならない。そのように「遊びきる」こと。

3.度を越えて遊ぶ

アルコールやギャンブルで身をもち崩す人間や、SMプレイの最中に“事故”で死ぬ人間、オーバードーズで死ぬ人には、「度を超えて遊ぶ」という才能がある。
才能を充分に発揮した結果、彼/女は落魄れて頓死する。だが、生が何れ死ぬ迄の過程なのであれば、彼等の生はそれはそれで悪いものではない。
底のない不安、恐怖を味わい、とめどなく笑い転げる、いや、随分充溢した生ではないか。

自らを高純度のもので充そうとする人間は、人生において破綻するリスクが高い。
破綻していないように見えたとしてもそれは見かけだけ、或いは、周りの人間が「割りを食っている」のかもしれない。ピカソと“関係”した人間の多くが狂ってしまったように、である。

いいだろうか。遊び方を覚えるってのは、遊びを程よく手なづけるってことじゃなく、むしろ遊びの際限のなさに生きるということだ。それは、遊びに真剣になるということでもある。
遊べない奴の「真面目さ」というのは、遊びはしょせん遊びだって、枠にはめることで、遊びを舐めている。そうではなく「真剣に遊ぶ」こと。

真剣に遊ぶ。恋人は恋人のふりをするのだし、親子は親子のふりをする。人間関係に「真」はない。ただ「味」はある。ごっこ遊びは真剣になりきるほど愉しい。
力のある言葉は、真実だから力があるんじゃない。例えば、極まってきたとき、耳元で「愛してる」と吹き込まれると、それでイってしまう。嘘でもいいのだ。少なくとも「愛してる」という嘘には「イかせる力」がある。つまり、嘘で殴り合う約束をしている者同士を恋人と称するのかもしれない。

無論、太宰は「心中ごっこ」をしたのだし、三島だって「心中ごっこ」をしたのだ。小林秀雄と中原中也は「三角関係ゲーム」をしたのである。そうした本気の遊びは、真ではないが、「そうでしかない」味がする。最高級の料理とはそういうものである。
文芸も、恋愛も、仕事も、人間が為すことは、一切が遊びでしかない。
なんでも、深みにはまるほど、軽くなっていく。不自由になるほど、自在になっていく。
だから、太宰にしても三島にしても、自死に追い詰められたのではなく、自ら死ぬ自在を得たのだと受け止めた方が正しい。
小林や中原は嫉妬に身悶えして“惨めになれる”ほどに自由であったのである。

十返舎一九が遺言に「棺桶には花火をたっぷり入れておいてくれ」と書き残したという話がある。
悲しみに沈む参列者、いざ火葬の竃へという葬儀のクライマックスで、花火ドーンパチパチ!という寸法である。
シオラン曰く、「これはいいやり方だ、何故なら彼の最期の息は期待のニヤニヤ笑いだったろうから」。
江戸の文化のなかには、例えば落語ー歌舞伎の「駱駝」もそうだが、死を笑い飛ばすという系統がある。
死を笑う、色恋を遊ぶ、これは、死と生殖という人の生物としての条件を受け入れる、最もエレガントなやり方ではないだろうか。成熟した文化とはこういうものであろう。つくづく、「遊べない」近代人は野暮である。

4.遊ぶ身体のためのエチュード

若い頃には、自分のこと、将来のことに悩んだり、無駄にあくせくするもので、意外に閑はない。身に沁みた教養もないから、遊ぶといって、なかなか上手く遊べるものではない。

それでも、悩む自分を受け流し、できるだけ不真面目に、好きなことだけにのめりこんでいれば、いずれ何とかなる。「何とかなる」とは、食えるようになるとか、理想的な自分に近づくことができる、とか、そういうことではなく、食えなくても、どうしようもない自分でも、そんなことはどうでもよくなって、日々を何とか凌ぎながら、ただ遊べるようになる、ということである。
ただ遊べるようになれば、人間の生にそれ以上のことなんてないのである。

学習とは「遊ぶためのエチュード」であると捉えるべきだろう。
学習を重ねていくうちに、ある瞬間、回路が開き、世界に通じるということ。
分かる、ということは、個々の対象を知ることではなく、その個々を成り立たせている場へと遊び出る力能を得るということなのである。

歳をとってからでは遅い。充分に遊ぶためには、教養が要る。若い頃から遊ばないと、教養は身にならない。
若い頃は、周囲を誤魔化してでも、自分の遊ぶ時間を「強奪」せねばならない。
生真面目なアリは、働きづめで消耗してある日頓死する。酷い時代だ。どうせ行き詰るなら、確信犯的なキリギリスとして、「個」に賭けてみてはどうか。賭けに負けたとしても、すくなくとも死ぬまでは楽しく生きられる。

5.+M口上

dilettanteは遊びに遊ぶことを生きる軸となすものでありまして、なんと気儘安楽なものかと呆れられましょうが、dilettanteに徹して飽かず遊び切るには、それはそれである修身のようなものが必要となります。
遊ぶに邪魔なものを削いでいく修身、自らを空じさらに空じてゆく修行、いや、修身・修行等といっては、些か大仰になりましょう。殆ど資質といっていい、血の命じるところに従って、こうして浮わついたまま今ここまで流れ来住たとするのが正直。
ともあれ私などは、自覚する限り、15の時分には既に心朽ちて、あとは余生である、遊ぶだけであると独り決めし、以来35年になんなんとする歳月を、ただ自らを空じ、その空き地に遊具を買い入れ、または人を招じ、あるいはただ寝転んで過ごしてまいりました。
もうそろそろ、世間一般の基準に照らしても、余生と言うに然程奇異な物言いでもなくなりつつあるようです。頑なに棹差す要もなくなり、いよいよ空が極まってきた感もあり、これからいよいよ本格的な魔界に入ってゆく所存に御座います。


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