続・役に立つリベラル・アーツとは?

「役に立つリベラル・アーツとは?」の続編です。前記事で、私は、リベラル・アーツを「アナロジーによってネットワーク状に結合され、且つ構造的に立体化された知識体系」と定義し、その習得、育成のために「1.つねにアナロジーを働かせること、2.つねに原理を志向すること」の2点を挙げておきました。しかし、特に、1.つねにアナロジーを働かせること、については、その頭になっていない人には、イメージが掴みづらいかもしれません。
今回は、その実践をめぐって、さらに具体的な処方を書いていきます。

1.アナロジーは「周辺視野」の活用である。

バーバラ・Ⅿ・スタフォードはその著書『ヴィジュアル・アナロジー』で、アナロジーが働いている精神の状態について、とても示唆的なエピソードを紹介しています。
『バイヤット』の一節に、数学の天才であるマーカス少年が、師のルーカス・シモンズに、数学の解の着想を得るときのことを話す場面ー

ぼくはよく見たもんですー想像したもんですー(…)庭みたいな所です。いろいろな形が、数学的なかたちがその風景中に散らばっているんですが、その風景の中に問題の奴を放り出してやると、問題はかたち達の中をさまよい歩いてーあとに光る道を残していく。そこで、ぼくには答が見えるんです。

バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー』

数学の問題を解くには、数学的なかたち達が散らばっている庭に、問いを放り込んでやればいい。直示されたものをただ視ればよい。考えたり、想像されたものではない、ということが言われています。そのうえで、こんなことが言われているーここが興味深いポイントです。

頭の中でみるんですがー大事なのははすかいに見る―ていうかちらり見することです。“大体”、どの辺にあるのかね、まともに見てはだめ、わざと他所見して、それがかたちになるのを待つんです。
待っていると、そいつのイデアが“そこにある”っていうのか、それに合わせて図を描いたり、言葉を口に出すことさえできるんです。(…)

バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー』

ここで言われている「はすかいに見る」「ちらり見する」「わざと他所見して、それがかたちになるのを待つ」ということーアナロジーがよく働いているときの精神状態では、まさしくここで言われているような注意の持続が実践されています。
物事を正面から見ると、AはAにしか見えません。AはBに似ている、という頭を働かせるには、Aという「図」を、A/A≒B≒…という「地」において見る必要がある。つまり「図」と「地」を“同時に”見る必要があります。
「図」を正面から注視すれば、「地」は意識に上ってきません。「図」と「地」を“同時に”見るためには、「はすかいに」「ちらり見」しなければならない、換言すれば「周辺視野で捉えなければならない」のです。

アナロジーとは、Aを見たとき、BにもCにも似ていると気づき、そのネットワークに繋いでいく、ということですが、それは、Aに即して言えば「AはAでなく、Aでなくもない」という二重否定の状態にする、ということでもあります。
言語で表現すると、なんだかとても奇妙で、複雑な感じがしますが、なに、図を”斜視”することで「図」と「地」を同時に見る、要はそれだけのことなのです。「言語的ロジック」ではなく、「図像的ロジック」で考えれば、実践可能なレベルに落とし込めるのではないでしょうか。

2.雑(アルス・マカロニカ)という形式-アティチュード

高山宏は中沢新一との対談で、山口昌男の著作で「対談、論文、エッセイがひとつの本のなかに同居する<雑>ぶり」を「アルス・マカロニカ」と名づけ、その魅惑と可能性をめぐって語っています。
著作家には、行儀正しい著作集の姿とは別の、「雑」な形で編まれたものを供された方が魅力が増すだろうという系譜があります。
山口昌男は、アカデミックなコードにとらわれず、ジャンル、領域、学問の分割線をトリックスター的に易々と横断し、その結果を、雑然とアウトプットしつづけました。

前段で、アナロジーを駆動させるには、「はすかいに」「ちらり見」すること、「周辺視野を働かせること」が重要だと述べました。アルス・マカロニカとは、つまり、問題を、特定のコードに則って、正面から論じたてるのではなく、つねに「周縁的」に、問題の「周り」をめぐりながら、その解を遠望するための形式-アティチュードなのです。

敢えて整理せずに、雑然とさせておくこと。専門性やジャンルにとらわれないこと。山口昌男のように、雑然をそのままひとつのスタイルにまで磨き上げ、成立させてしまうこと。
これはそのまま、アナロジーを抑圧する「再帰性ー同定性」を解除するための智慧でもあります。

3.創造的インプットのための<メモ>

鷲田清一は、とにかく何か気にかかったことは、ちょっとした思いつきもニュースも、全部カテゴライズせずに一冊のノートに時系列でメモしていくのだそうです。これも「アルス・マカロニ的実践」と言うことができます。アナロジーを駆動させるとき、最も重要なポイントは、「カテゴライズしないこと」なのです。カテゴライズとは、情報をツリー状に整理することですが、そのことで、情報ひとつひとつが自生的に他の情報と結び合う創発的なネットワーク性を抑圧してしまうのです。

鷲田の方法のさらに優れているのは、「時系列にメモする」という点です。日記もそうですが、時系列に並べることで、そのメモを取ったときの無意識の文脈が記憶に残りやすくなります。自分が、なぜ、その情報に「ビッと来たか」、その身体性がインデックスとして付与されることになります。そうした「身体化されたメモ」だけが、「創造的インプット」の役に立ちます。

自分が使える情報は、自分にとって気にかかる、未完結の、生の知識だけなのです。「生の知識」とは、自分の身体において“生きている”知識のことです。「身体化された知識」ということです。
メモ、というのは、ひとつの外部記憶装置ですが、あくまでも「身体化された知識」を賦活するためのトリガーでしかありません。完成度の高いデータベースをつくるのではなく、アナロジーを駆動するきっかけをコレクションしておくのです。

鷲田清一に倣って、気にかかったことは、片っ端から時系列でメモしておきましょう。そして、それを、パソコンにテキスト化しておくことで、検索可能性を与えておけば、それでいいのです。図のメモであれば、写真にとって、タイトルをタグにして、パソコンに放り込んでおきます。

私の場合、未だ「兆し」のような、微弱すぎて形にならない着想は、スマホのメモ帳に、メモしておきます。すこし形になりそうなら、ツイートしておきます。その作業は、一種のアウトプットでもありますが、私はその行為をあくまでも「創造的インプット」と捉えています。

さて、どうでしょうか。ジャンルやコードにとらわれず、「気にかかった」ことを雑然と「ボックス」に放り込む。そうすることで、自ずと「気にかかるという能力」も解放されていきます。アナロジーを「気にかかる能力」とまとめてしまってもいいかもしれません。
放り込まれた「生の知識」は、生=生き物なので、ある程度自動的に動いてくれます。この自動的に動く知の結び合いが、アナロジーということなのです。

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