ハッカを噛む

アレイはぐっすり眠っている。重力のままに枕にうずまる小さな頭、気をつけないと見逃してしまう程度の胸の上下。苦悩のしわも悲痛の翳もない、まあたらしいリネンのような寝顔をながめているとなんだかいてもたってもいられなくなり、わたしはひかえめなその目元に唇を寄せて薄く口を開き、やわらかそうな目蓋をぱくりとはんだ。小学生の頃夢中で蜜を吸ったツツジの花の感触が、脈絡もなく唇によみがえった。
おそるおそるその綴じ目に舌を這わせると、長く密集した睫毛がゆらゆらとほぐれる。味なんてないはずなのに、甘いなと思った。・・・何度か目蓋の表面を往復するうち、わたしは、自分が無意識に舌先に力を込めていることに気づく。他人(正確には人ではないが)の顔を、しかも本人の許可無く口に含むことはあまり褒められた行為でないことはわかっているのに、わたしはいま、目蓋の奥にかくされたアレイのみずみずしい瞳まで侵そうとしている。どんどん大きくなる衝動にかられるまま行動を起こす薄暗い気持ちよさが、
「オイシー?」
思考が中断される。早朝の深林にみちる霧のようにしずかな、けれどいたずらっぽい声がすぐそばで聞こえた。「ごめん、」慌てて口を離しアレイを見ると、彼女は目を瞑ったまま、ふふふと笑った。
「イイメザメダヨ」
ごめんねとまた謝りながら、わたしは自分のパジャマの袖で、唾液で湿ったアレイの目元を拭う。美しい彼女の顔に自分の分泌物が付着していることに、今更ながらひどい罪悪感と、理由のわからない鼓動の高鳴りをおぼえた。
夜はもう明けそうだ。アレイは身体を起こして、窓の外の黎明の紺の空を、何度も一緒に歩いた平凡な街並みを、今は誰もいない大通りを眺める。「モウスグカア」うーんと息を吐きながら伸びをして、アレイはこちらを振り返って、ほほえんだ。
「ジャア、」
「なにか、あたたかいものでも飲まない?」
困らせるのはわかっていても、言葉が止められなかった。わたしの悪あがきを察してくれたのか、アレイは黙ってうん、とうなずいた。私は立ち上がって、キッチンに向かった。

天使は背中に羽根が生えているわけではないことを初めて知った。天使は頭上に光の輪を持つわけではないことも初めて知った。ある日突然ベランダに降り立ったアレイは、腰を抜かしているわたしの前で、ランドセルのように背負える一抱えの大きさの翼(構造自体はドンキホーテのコスプレコーナーに置いていそうな代物だったが、今しがた白鳥からもいだかのように純白で、勝手に羽根先が震えていた)で空を飛んでみせてくれたし、指先で空中に光の線を描き、わたしの頭の上にかわいらしい輪を載せてくれた。
アレイは地上での生活を“研修“というけど、なにか特別なことをしているような素振りはなくて(翼はわたしの建付けの悪いクローゼットに早々に仕舞われた)、コインランドリーで洗濯物の乾燥を一緒に待ったり、ホラー映画を観た夜に抱き合って眠ったり、彼女はわたしの毎日にすんなりと入り込んで、すっかり癒着してしまった。自分以外のちいさなあたたかさが常にそこにある生活。相槌と小さな笑いが常にそこにある生活。ある日夜ご飯にとテイクアウトしてきたサンドイッチにいたく感動したアレイが、“研修“を終え天国に戻った折にはどうにかして“先生たち“にこれを食べさせられないものかと思い悩み、わたしが名誉ある試食係として彼女が作った出来損ないのサンドイッチを数日間食べ続ける羽目になったとき、わたしはアレイの発した「アトチョットダカラ」の言葉にわけも分からず胸をしめつけられて、ようやくこの生活にも終わりがあることを思い出したくらいだった。

小さなライトを点けただけの、夜明けの静かなキッチンで、アレイの好きなペパーミントティーのティーバッグをマグカップに落とす。黄金色が湯に溶け出し、かぎなれた清潔なメントールの香りがふんわりふくらむ。鼻先が凍りつくほど寒い日の、誰にも見られない夜明けを選んで飛びたつのだと、アレイは嬉しそうに言った。彼女の眠りはいつも深く(わたしが夜中に建付けの悪いクローゼットを開け、物音を立てて家を抜け出しても目を覚ましやしない)寝坊しない?とからかうと、そんなことはありっこないとふんふん怒るアレイの仕草が可愛くて。

かわいくて。

キッチンへひたひたと歩いてきたアレイが、わたしを見上げる。あどけない丸い瞳、ひとつも疑問を抱かない瞳。口に含んで転がせば、きっと飴のように甘いんだろう。
「ネエ、ワタシノ翼ッテドコイッタノ?」
天国へは返さない。わたしも行く気はない。

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