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相模原障害者殺傷事件と『しあわせな日々』

生存権の話、続き。

「生存権」や「生産性」と聞いて思い浮かぶのは、16年夏に相模原で起こった障害者施設殺傷事件だ。

この事件によって、世間は大きなショックを受けていた。けれども、その時期には東京を離れていたこともあり、(ちょうど、利賀演劇人コンクールの真っ最中に起こっていた)しかし、僕にはそのショックがいまいちよくわからなかった。わざわざ本まで読んだのによくわからなかったのだ。

ようやく、ほんの少しだけわかったのはここ最近のことだ。

植松被告の言う「心失者」とは、人間でありながら人間と呼べない状態になった存在という意味で、彼はそれを自ら、津久井やまゆり園に侵入して暴力的に死を強制するという形で社会に問題を問おうとした
相模原障害者殺傷事件・植松聖被告と面会室で話した強制不妊問題(篠田博之) https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20180530-00085849/

植松は「人間」と「そうでないもの」を分けようとした。

甥がダウン症である友人は、相模原の事件の話になると強い反応を示した。彼によれば、植松の犯行が絶対に許せないのは、彼の行った行為が残虐非道だから「だけ」ではない。植松が行ったのは、自分が「想像したことがあること」だったからだ、という。甥がいなくなれば、と彼は(そしておそらく、彼の兄弟も)一度は考えた事があるかもしれない。

それは、僕の頭に祖父を殺してもいいんじゃないかという考えがよぎったことと同じだ。もはや「人間ではない」のだったら、彼を殺すのは、一方的に咎められることではないのではないか。きっと、そのような考えから、植松は「人間」と「そうでないもの」を分ける必要があったのだろう。

もちろん、植松が言うような「障害者は不幸を撒き散らす存在」ではない。友人の兄弟は子供を持ち幸せだと言うし、友人その人も、甥のことが好きだ。僕だって、祖父にできる限り安らかに死を迎えてもらいたいと思っている。

でも、ある時ふと、よぎってしまった考えは、なかったことにはできない。

人間とは何か?

今作に引きつけて言うならば、「丘に埋まって、無駄な繰り返しばかりをしているウィニーは人間か?」。

植松に殺された人々を、人間であると言う僕らの根拠とはなんだろうか?

人間の命は地球より重いから? いや、それは理想論過ぎる。憲法や法律がそう決めているから、ではない。足りない。生存権なんて、そもそもがフィクションであり、建前である。トランプの出現が、あるいは、ブレグジッドがこれまで共有されてきた「フィクション」や「建前」の綻びを示す中(その中には、近代市民社会が育んできた「演劇」という制度も含まれる)、どのようにして、植松に殺された人々を、友人の甥を、僕の祖父を「人間である」と言えるのだろうか?

ウィニーは動けない。生産性はない。未来もない。

彼女は、何をもって「人間」なのか?

これについてはまだ考えなきゃならない。


関係ないが、友川かずきは「俺たちみんなトドだぜ」と歌っている。


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