見出し画像

誕生日でもノートを新しくしない

これまで、何冊のノートを無駄にしてきただろう。
新年、新年度、誕生日、なんらかのタイミングで思いたって、
日記、勉強、映画の感想、ダイエット記録
いろんなノートを作っては、最後まで使い切らずに捨ててきた。
最後まで使いきれない自己嫌悪と共に、捨てる。
自己嫌悪と向き合いたくないから、途中からまた使うことはしない。リセット、リセット。それを何度も繰り返す。
それでも、何度も、新しいノートを買った。その度に、何かが変わる気がした。今度こそ変えられる気がした。その気持ちだけは、清々しく一丁前だった。

1年半ほど前から、毎日日記のようなものをつけている。絶対に誰にも見せないが、7冊目になる。それ用のボールペンの芯も、少なくとも20回は変えた。何かが変わったと思った。実際変わったこともたくさんあって、魔法みたいだと思った。言い過ぎではない、くらいの気持ちだった。
その日記を、ここ1ヶ月、すっかりサボってしまった。丸1ヶ月空いたのは初めてだ。特に何があったわけではない、少し忙しかった?そんなの全く理由にならない。

このまま、もう少し立派な人間の状態で、誕生日を迎えられると思ったのに、
と思った。

でも、よかった。やっぱりどこかで、魔法にかかったつもりになっていたのだ。
変えられるし、変わることもできるし、変わったこともある。それは魔法でもなんでもない。現実に起こった、事実の積み重ねだ。でも、変わった「つもり」の部分は、そのうちマボロシから覚める。誕生日前にちゃんと気づけて良かったんだ、そんな簡単に変われるほど、人生甘くないぞって。

1ヶ月空いてしまったノートは、また途中から再開した。
新しくはしない。捨てたってどうしようもない。ノートを捨てたって、わたしの人生はずっと続いている。
一回全部捨てられたらどんなに良いだろうと、思うこともある。そりゃ思う。でも、何をどうしたって新しいノートに変えることはできない。昔のページをたまに開いてしまっては、真っ黒に塗りつぶしたくなる気持ちをグッと堪えて、新しい次のページに文字を書き殴る。そうやって、次のページを書き進めていくしかない。それしかできない。

友人に、「昔のページに書かれた自分がダサすぎて、嫌にならない?」と聞いたら、「昔の自分ダサくてかわいいな、って思うよ」と言っていた。
長い付き合いであればあるほど、あの頃の自分と仲良くしてくれてありがとうと、友人や家族に対して心から思う。その気持ちを忘れてはいけないから、昔のページに書かれた自分を、なきものにはできないな。それは、周りの大切な人たちに、失礼だ。

ただ、昔のページを勝手に開いて「この時のあなたはこうだった」って言うだけ言って、その先に何が書いてあるかを見ようとしない人とは、付き合わなくて良いと思う。

いつも通りの日曜日ですが、誕生日を迎えました。ひとつ歳を重ねました。
大切な時間を重ねたことは、素直に嬉しい。今日これからのわたしを、昨日からの続きのノートに、書き連ねていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?