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もう2ヶ月も前の話になってしまうが、1月の終わりに倉俣史朗の展示を見に行く。一見するとアヴァンギャルドともとれる作品の数々が、実は、優しくロマンティックな倉俣の目線で捉えられた、世界と自分自身との間で起こった対話の果ての表現の姿なのだと知る。衝撃的で、かつそこには確かな温度をもった人間性を感じる。

今回の展示では倉俣自身のことばが多くの作品のすみに寄せられているが、それらのテキストを熱心にノートに書き写す若い観覧者が多かったのがとても印象的だ。人が活字離れをしたと言われて久しく、出版業界は斜陽産業と言われて果たしてどれくらいの年月がたっただろう。時代は動画、それもショートムービーに限られ、人は10分と集中力がもたないとされる。その隙間の時間を目掛けて360度からあらゆる仕掛けがやってくるのが現代だ。

その今、ひとつひとつの文字を追い、長い時間をかけて(少なくとも熱心に作品と文字を追って会場を見通したら1時間はかかるだろう)ノートにそれらを書き写したり作品と文字を見比べたりする人がいることに驚きを隠せなかった。それは、目の前に提示される作品を読み取る力や観察眼の衰え、美術や芸術に対するリテラシーの低さゆえに補完的なテキストの力を必要としてしまうという負の側面をのぞかせる一方で、多くの人、それも若い人々がいまだことばの力を信じており、リアルに目の前にあるものや空間と同時にテキストを飲みこむことで何かを理解しようとする意識が向いているという希望とも取れる。

コロナ禍からリアルとデジタルの境界が薄れ始めたように感じるが、その時、リアルを感じたくて様々な展示を見に行った先でも、多くの人はその作品に対峙することなくその場にいる自分を写すことに熱中していたことを思い起こせば、今のこの鑑賞姿は美しく正しいもののように感じられてしまう。


展示の後半では、倉俣の残したメモなどの個人的な記録の数々が展示されており、その中には夢日記なるものがあった。彼が実際に見た夢を、ノートに淡々とことばとして残していたノート。

果たして夢は過去なのだろうか?未来を予知する何かなのだろうか?
それとも、ただ今脳が活性化して溢れ出た電気信号か何かが映し出す映像にすぎないのだろうか?


睡眠を研究する大学教授が雑誌のWIREDが提供する動画で話していたことによると、人は夢を見ることによって、未来に起こる出来事について事前に学習しているというのだ。記憶には残っていないにせよ、夢で予め体験しておくことによって、その後に起こる困難や障害に対応できる能力を身につけていると。それはとても興味深い考察の一つである。

そう考えると夢は今の時点をゼロ地点とするならば未来を抱合する過去と言えるだろう。経験したことはつまり過去である。だが実際に現実としては経験しておらず、それはこれから起こることを予見し備えること。

起き抜けの自分を目掛けて窓から差し込む朝日をまぶたの裏に感じた時、せめてそのときまでに見ていた光景を、わたしも一度くらいは、たいせつにことばにしてとっておきたいなと思う。


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