私たちはみんな料理人である
ども、こんにちは。
最近節約生活を始め、料理をよくするのですが、パスタとそうめんを茹でて食べることが多いです。「それは料理じゃない」と思われた方もいらっしゃると思いますが、これは立派な料理であると考えています。
料理の定義
なぜなら、これは料理を規定する3ステップを満たすからです。それは、「材料を集める」「調理する」「盛り付ける」です。
例えば、パスタを食べようとした場合、最初にパスタや野菜などの必要な材料を用意します。次に、パスタを茹で、野菜を切ったり炒めたりします。そして、最後にお皿に盛り付けます。
どんな料理も、この基本プロセスは変わらないですね。だから、当然そうめんを茹でるのも立派な料理です。
そして、この基本プロセスは、私たちが日頃行う「知的生産」と本質的には全く同じであることに気づきました。
私たちはみな料理人である
「知的生産」は、「インプット」「プロセッシング」「アウトプット」から構成されます。
まずは「インプット」です。
美味しいパスタを作るためには、良質で十分な量の材料を用意することが大切です。そのように、良質で幅広い分野の情報をインプット、ストックし、いつでも取り出せるようにしておく必要があります。
次に「プロセッシング」です。
良質で十分な量の材料が揃っていても、「調理の腕前」が良くないといけませんね。また、「調理器具」も揃っていなければなりません。「知的生産」においても、インプットした情報を「加工する腕前」が良くないといけないし、加工を助けてくれる「フレームワーク」という調理器具があると良いです。
最後に、「アウトプット」です。
お皿に盛り付けないとですよね。加工した情報をいかに表現するか、見せるか。最終的に伝わらなければ意味がないので、ここも結構大事なところです。
このように、「料理」と「知的生産」が本質的に変わらないことをお分かりいただけると思います。
人に感動を与える料理とは?
しかし、「美味しい料理=感動を与える料理」ではないことには注意が必要です。
僕が今まで食べた料理で一番感動したのは、お腹が空いて仕方がなかった高校生のある日、母親が残り物で作ったなんかめちゃうまい炒め物でした。
社会人になり、松坂牛とか、すごい高い寿司とか食べることもありましたが、それはもちろん美味しいのですが、あの時の残り物の感動を超えることはありません。
これも非常に深いと思います。「美味い」からと言って「感動」するわけではない。「感動」は「実際」と「期待値」の強烈な差分によってもたらされるのです。
僕が冷蔵庫を開いた時の「期待値」は「ゼロ」だった。しかし、母親はその「ゼロ」から、めちゃ美味い炒め物という「実際」を作った。その強烈な差分に感動したのです。
一方、松坂牛が美味いのは当然だし、めちゃ高い寿司が美味いのは当然です。
僕たちも、人に感動を与えたいと思うなら、他人がスルーするような「期待値ゼロ」の情報から示唆を紡ぎ出し、アウトプットすることが大事なようです。
芸人は多くの「笑い」を生み出します。でも、そのネタの出所は日常の本当〜に些細なことだったりします。限りなく「期待値ゼロ」です。そこから示唆を紡ぎ出すから、思わず笑ってしまう。「感動」と「笑い」は非常に近しいものがあると感じます。
僕も「芸人」でありたいと思います。
では、さいなら!
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