月モカ_181105_0098

月曜モカ子の私的モチーフ vol.188「股の間」

アラビヤにいた時、artつまり芸術とはアルスという言葉が語源であり、アルスとは生きていく日々の中で生まれる生活の智慧を現す言葉だと習った。
つまり芸術とは、本来は日々の中から生まれる“智慧”に始まるのだということ。[ ※芝居に関する記事なのでエモいです。笑]
                        
先日記事をシェアしたパショパショ改め「パショナリーアパショナーリア」の芝居ははまさにその芸術の起源に立ち返り「そもそも表現とは何か」を根幹から揺さぶり、女優であり母であり女である表現者たちのアルスを切り拓く、極めて革命的な芝居であった。その革命とは何か。
女優たちが日常や生活を犠牲にし、非日常だけを観客に見せ続けなければならない時代の終焉である。

(⤴︎【SPICE】さんによる稽古場レポートより引用。撮影=Mihokingo)

それが、このような形で成功を収めるにはまず出演者たちが一流の女優たちでなくてはならない、売れていなくてはならない(売れてなかったら、家庭を優先している、だから売れないと言われてしまうから)。
そしてさらにはその有名女優たちが「日本のママたちのために同じ目線で立ち上がってくれる」ことが重要であって、次に、子どもを楽しませつつも大人のための大人の演劇を作ることがさらに必要で、それらを兼ね備えた状態というのは、まさにポーカーで言うとロイヤルストレートフラッシュくらいのことなのである。
                          
なぜなら、女優が、特に稽古に多く時間をとられる舞台女優が、一流であり続けるためには走り続けていなくてはならない、そうでないと居場所は奪われていくから、だから一流の女優さんたちが、一念発起してこのようなプロジェクトを立ち上げることが、長らく不可能なのであった、この演劇界では。

                          
革命というものは、だいたいの場合、未来から振り返った時に認識されるのであって、起こっているその時というのはそれらは混沌の中に発生していて新しい風だという風にある一定の人たち以外には実感されづらい。なぜなら新しいから、理解できない。古いフイルターで見てしまうと、どこがすごいのか、わからない。なんでこんなことを言うかというと、これが本当に凄まじくすごいことだということを知るには、これまで演劇界での女性というものがどういう立ち位置であったか、演劇を続けていく、しかも第一線で、ということがどういうことだったかを理解しないと難しいからである。

                          
そもそも今回は主宰の町田マリーさんを含め3人も毛皮族の女優が出ているのだけれど、毛皮族というのは小劇場の世界の中で絶大な人気を誇った劇団であった。看板女優の町田マリーさんはその美しい容姿と幅広い芝居力を生かして映像でも引っ張りだこ、演劇を知らなくても彼女の名前なら聞いたことあるという人は多いのではないかと思う。
                         
(えっと知名度の話になってくると難しくて、みんなこのパショパショの女優さんたち知らないとか思う人もいると思うんだけど、じゃあノーベル化学賞とか獲った研究者の名前って最初から知ってましたかといったらみんな報道されるまで知らないのと同じで、テレビに出てなくてもこの人たちは演劇界でいったらすごい有名人だし一流の人たちなの)

                          
数年前、座・高円寺という劇場で、毛皮族の公演があったのだが、看板女優の町田マリーさんがちょうど公演日あたりに出産を控えており「産んだ場合は人形が代役します」みたいなことになっていて、笑、それだけで当時十分斬新だった。
結果的にマリーさんは本番直前に陣痛が来て、本番はマリーさんの代わりに舞台の上には人形がいたのだけれど、笑、本番中にマリーさんの出産を追うドキュメンタリー映像が流されるという、これまた前代未聞の演出があった。(産まれるとことか撮影してるのよ、すごいよ、公開立会いよ観客、旦那さんめちゃ理解ある!笑)

(⤴︎ナタリーの記事より引用。こちらも撮影=Mihokingo)

舞台というのは映像と違ってその場の説得力というのが全てであって、生感がすべて、その説得力が「つじつま」のようなものを凌駕してしまうことがある。うたタネ♪とかやっててもそうなんだけどハプニング続きのもはや公開ゲネみたいな方が評価が高く、割とスムーズに行った回のが面白みに欠けたり、するのだ。生>理屈。それが舞台の世界。
                          
その時差しこまれた映像はあくまで町田マリーの出産シーンであって(産んでる時まで演じられないしね笑)
その役のそれではないのだが、なんというのだろう、ギリギリまで稽古場にいて、本当についさっき「産んだのだ」という、そのリアルストーリーの説得力と臨場感が、その演目と見事に溶け合い、つじつまを凌駕しその空間を凄まじく成立させてしまった。観客たちも皆、見る予定じゃなかったすごいものを観たような、何だか言いようのない興奮に包まれてしまった。
(当然、主宰の江本純子はそれも織り込み済み演出しているのだと思うのだが)

                         
「パショパショ」は、その看板女優の町田マリーさんが女優の中込佐知子さんと一緒に「家庭と演劇の両立を」と立ち上げたユニットで、
初演はクラウドファンドでお金を集め、今回が第2回公演。初めてマリーさんが脚本を書いた。
                          
内容はまさに母親であり女優でもある女性4人が、本番を迎える前の楽屋を舞台に、地つづきで続いていく物語。
保育園に預けられず子供を連れてくる女優、両立に悩み、夫が役者を続けることを応援していない無言の圧力を感じるからこれで最後の舞台にしようかと悩む女優ーーこういうシリアスな話題を開演10分前に思わずしてしまうあたりがすごくリアルであるーーまた、子供をみている自分の母親からしょっちゅう電話がかかってきてメイクが進まない女優や、妊娠しているのに激しい準備体操して共演者であり先輩母親から注意を受ける女優など。
脚本の中に母親が46なのに40と年を偽っているシーンがあるのだが、まさにその日神楽坂Barに来た素敵な美人ママさんが「先日娘が美容室でわたしの年を偽ったの、ママは永遠の40さいみたい」と私に話すのを聞いて、あるあるエピソードだったんだなぁアレは、と思わず笑ってしまう。

                          
母親ならではの視点で構成されており、上演時間は45ふん。子供がちょっと飽きてくるあたりで絵本を読むシーンを挟んだりしてよく練られていた。

                          
地つづきの演目でやっているから、観客席のママたちも、きっと観劇中に子供が泣いたり、舞台に向かって喋ったりとかしても、それ自体が舞台の上で起こっている物語であり、そもそもそういうママたちの日々への讃歌として進んでいく芝居の進行であるのだから、慌てたり焦ったり困ったりせず、観劇を続けられるだろうと思う。(女優たちは十分それらを拾える実力の人たちだしね)

(⤴︎【Spice】より引用)

本当に一言で言って「愛しかない」素晴らしい芝居で、この演劇界における革命前夜に、わたしは終演後、涙が止まらなかった。同時にわたしには、この革命に置き去りにされる人たちのことも頭をよぎった。
時代が変わろうとする時、その前の時代に固執して、いろんなものを犠牲にしてきた人たちもいるから。
                          
こんなに自然体で、母親をやりながら女優としても輝いて、無理のないスタイルで公演を打ち、集まってくれる友人兼女優たちにも恵まれ、
観客席のママたちからは割れんばかりの拍手を浴びる。
(こんな時代が来るんだったら、わたしがやってきたことって一体何だったの)
そう思い、傷つく人もいるだろう。素直に拍手を送れない人たちもいるだろう。甘いとかぬるいとかディスりたい気分になる人もいるだろう。同じ時代を生きたからこそ、わたしはそうも思った。
ベルリンの壁が崩壊することを知っていたら、性転換して国境を越える必要もなかったヘドウィグのように。
                          
手術に失敗したヘドウィグは翌年どんな思いでベルリンの崩壊を眺めたか。
大げさな話ではなく、このパショパショが起こすムーブメントは、演劇界におけるベルリンの壁の崩壊なのである。
けれど、それらすべて全部清濁併せ呑んで「潮目」というものは生まれ、渦巻き、すべてを飲み込んで、新しい今日を連れてくる。

(⤴︎ナタリーより引用。撮影=Mihokingo)

このパショパショの撮影を担当したのが、まさにこの月モカの挿絵を描いてくれている本業はカメラマンの近郷みほ(Mihokingo)で、彼女とわたしと親友のちほは、日芸の同期、毛皮族とまさに同年代を生きた表現者でもある。みんなそれぞれ本気で演劇を志し卒業後も「円」や「文学座」に進み(わたしはなぜかディスコ業界へ進む 笑)その後、それぞれ、カメラマン、小説家、ジャズシンガーへと転身し、知名度の問題になると先のように難しいが、それなりにプロとなり今に至る。

わたしの主宰した芝居が麻布の劇場で第2回公演を迎えた時、同じ小屋に次の次に入るのは毛皮族で、毛皮族も同じく第2回公演、わたしたちの当日パンフには毛皮族の折り込みチラシが入っていた。
チラシを見ながら(気になるんだよなあ、ここ。)と思ったことを今も鮮烈に思い出す。わたしたち日芸三人娘はそれぞれ別のジャンルの表現者となり、町田マリーはメジャーな女優さんになった。今となっては自宅で家ランチとかする友人の高野ゆらこも、毛皮族の黄金期を支えた素晴らしい役者で、わたしはねじリズム(わたしがずっと関わっている劇団)の楽屋で初めて高野ゆらこを見たとき、普通の人が好きな芸能人と出くわしたときのように興奮したのを覚えている。(あの高野ゆらこが、なぜ、ねじの楽屋に!? 何!!?)笑。そんな気持ちだった。

                          
「ねえねえ、もしさ、わたしが18のときにこの舞台見たらさ、きっとモカコに “今日すっごいイタイ芝居見ちゃった、40歳でもキラキラ! とか言って、あんなのになるくらいなら役者辞めるよね” とかって電話かけてたかもしんない」

                          
劇場の外に出て、八丁堀を走り抜ける晩秋の風の中、マフラーに頬をうずめながら親友がわたしにそう言った。

                          
そうだね。

                          
わたしは答えた。

                          
この芝居の凄さっていうのはさ、同業者またはそれ志望の場合、
野心しかない無知で馬鹿な素人の役者志望に始まって、そこから、自分がイメージしていたように夢は叶わないんだとか、叶っても思った感じじゃなかったとか、自分なりに試行錯誤してやれることは全部やって、それでそれなりに売れたり、転機があったり、わたしとちほだったら小説とジャズとかに転向したりしながら、それでもずっとこれからも表現しながら生きて行くってなんだろう?って考えて、それってやっぱり“続けていくことなんだな、わたしらしく、肩の力を抜いて”って、そういうところに至らないと、気づかないんだよね。「思いっきりやってみたこと」がないと、地つづきで居られることの凄さ、丹田の強さって、きっとわかんないんだよね。

(⤴︎【Spice】より引用。毛皮族の黄金期を看板女優として駆け抜けた町田マリー。毛皮族はきっとこれからも輝きを保ちつつ燻し黄金の時期に入るのだろうけど)
                          
わたしたちは無知で愚かだった18の頃を思い出しながら会話を重ねた。自分がすぐにでも石原さとみみたいになれると思っていた、18の頃。こんなにはなりたくない、あんなことだけはしたくない、と、やりたくないことばかり羅列していた。

                         
「そうなんだよね。一周やりきって次の段階にいる人たちがあの芝居を作るから、ああいう空気になっているんだよね。芝居への愛が自我を超えている状態なんだよな」

                          
わたしたちはその後、でもさぁ、そういう意味では”うたタネ♪“だってまさにそれだよね、すごいじゃんあたしたち、と、自分たちのプロジェクトを互いに褒めあったりしたりしつつ、笑、うん、でも”うたタネ“はさマイノリティに向ける讃歌だけど、パショパショはさ「ママたち」というものすごいメジャーなものに向かう讃歌でこれはやっぱものすごいうねりに今後なっていくよね、うんうん、地方に呼ばれたりして? それを追いかけたドキュメンタリーとかできたりして? 映画になって? そしたら蒼井優とかが出るんだよ、子供を小脇に抱えてさ電車乗り遅れたりするんだよ、とパショパショの余韻に浸った。笑

                          
同じ時代を、形は違えど表現者として生き抜いてきた。
そしてもう、時代はアルスの時代へと変わりつつあることを実感している。
マイケルジャクソンは死んじゃって、
清志郎も死んじゃって、
ヒデキももういない。
ドラマだって90年代のどこか“非”現実ぽいものから、
“けもなれ”のように、地つづきの日々の中で感じることを大切に、かつリアルに摘み取るものが支持される時代になっている。

                          
インスタを通じて主婦だってカリスマになるし、
妹が書いたパショパショの記事を読んで思ったのだが、
ライターであり母であることが、邪魔なことではなく、伏せるべきことでなく、重要なアイデンティティになる段階に、時代は突入している。パショパショの記事は、働くママのライターが書くのがいい、説得力が全然違うもの。

(⤴︎妹の記事)

                          
プロフェッショナル。テクニック。
それらがそれなりに必要であることはわたしだってプロの作家だから分かっている。けれどもそれを凌駕するものがある。

それはその人が生きてきた道の跡。
歩いていきた人生の中で見つけた、これまでの夢とか野心とかを超えていく愛しい存在との出会い。
まずは人が一人で夢とか目標とかを掲げてスタートするんだけど、そこでそれを凌駕するような誰かとの出会いがあって、自分の予定とか理屈とかスタンスとか予定が全部覆って、そこで融合と分裂みたいなものを繰り返しながら、もんどり打って悩んで、それでも、ってその先に何かを表現していく、そこに真の芸術はあるのではないか。わたしは最近そう感じている。

                          
                          
ママちゃんライターにしか書けない文があって、結婚をしている人にしかわからないエピソードがあって、年配の大家さんのいる家に住んでいたから「大家さんと僕」という作品は生まれたりする。それがつまり、日々の中から生まれ、形になっていくアルスとしての芸術である。

                          
子を育てていないと「なんだかわかんないけど足の裏叩くと喜ぶのよ」というセリフは生まれてこないし、さらに足の裏を結構雑に叩くシーンも作れない。

                          
そういった細部に神が宿り、神は「ぶかっこうでも精一杯生きている」という人たちにウインクする。そして客席は笑いに包まれ、割れんばかりの拍手をしながら、ママたちは気がついたら泣いていて、泣きながら、そういえばこんな風に泣く時間すらもここしばらくなかったことに気がついてまた泣くのだろう。

                          
わたしは母ではないし、妻でもない。
だからわたしのレビュー(この月モカ)は、同じ時代を演劇に、そして芸術に捧げた、ざっくり分けたら“同業者”の肌感覚のみで綴られている。レビューというりお返し讃歌。パショパショという革命に対する祝辞であり讃歌。
それがわたしのアルスであり、わたしの説得力である。
どこか犠牲や影を伴うことが美とされた、90年代、00代の東京。その混沌の中で20代を駆け抜けメジャーデビューした3ヶ月後にわたしは30歳になった。毛皮族の公演を観ながら、当然自分の職業を愛している、なりたくてもなれない職業につかせてもらったことは重々わかっている、けれど同時にこれくらいの熱量の芝居を自分も作り続ける予定だったのになという少しの寂寥を握りしめ、舞台上に立つ、町田マリーを、高野ゆらこを、延増静美を、眺めていた。

                          
                          
歌舞伎俳優や噺家さんの持つ、家族の葬式の日も舞台に上がっています、という極限性も美しいと思っている。
同時に、わたしたち女の場合、
だってでも「今、生まれてきてしまうんですもの!」いのちが! この股の間から!みたいな、笑、
そんな感覚の中で、生まれてくる作品、芸術がある。
頭じゃないとこからやってくるそれ。
そこにもある種の極限性をわたしは感じ、それをさらけ出していくことにも「美」はあるのではないかと考えている。

                          
そんな中でまたパショパショの新たな作品は、威勢良く鳴き声をあげて、
生まれてくるのだろう。
革命的な彼女たちの”股の間”から、極めて本能的に。

                                  <イラスト=MihoKingo>
                                  

※今回、町田マリーさんの相棒であるパショパショのもう一人の主宰である女優の中込佐知子さんに関して、わたしが不勉強なあまり、知ったかで書くのもと思い言及が少なくなってしまった のですが、舞台上では圧巻の存在感であり、Wikipediaをご覧いただければ彼女がどれだけ素晴らしく実績のある女優さんかはお分かり頂けると思います。


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なお、Noteの「時雨美人伝」というマガジンにて「時雨こぼれ話」をちょこちょこ更新しています。合わせてどうぞ!
■時雨こぼれ話→http://note.mu/mocatina/m/mef2687d039df

☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。

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