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【時雨こぼれ話②】母の打撃とダイヤ(後編)

どうも。桃果子デス。母の打撃とダイヤ、後編。
”時雨美人伝” 第3回「太陽と太陽の結婚(後編)」でわたしは女人芸術が始まった経緯(いきさつ)として、円本ブームに乗っかって莫大な印税を手にした三上於菟吉がこれまでの放蕩の償いや支援に感謝するような気持ちで「この2万円でダイヤの指輪でも買ってください」と言ったこと、そしてその言葉に時雨さんが「ダイヤは要りませんから雑誌を作らせてください」と返したことから「女人芸術」が始まったと書いた。 
(※読んでいない方のために前回の記事のリンク貼りますね⬇︎)


円本とは1926年(大正15年)末から改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』を口火に、各出版社から続々と出版された、一冊一円の全集類の俗称、総称。でこれが民衆たちの間で飛ぶように売れ、現在の「直木賞」に続いていく大衆文学の時代が花開いていくのだった。当時のお金で2万円といえば家を買えるくらいのお金。結局のところ「女人芸術」は4年にわたり三上出資で刊行し続けたが大いなる赤字で廃刊となり「ダイヤの指輪よりよっぽど高くついた」と親しみを込めて揶揄されたわけであるが、笑、
(これはおそらく三上サイドの友人たちが三上さんをからかって言ったことのように思いますけど 。笑。男文士たちのあるある話。)
本編では書ききれなかったこの「ダイヤの指輪」というのは長谷川時雨にとっては一つ物語があるのである。


時雨さんは「名士回答ー指輪と万年筆」でこう記している。

黒ダイヤとエメラルドの澄んだものならば、今でもあるいはとっておいたかもしれませんが、私はある折ふと感じたまま、指輪をやめてしまいました。かなりよいダイヤでした。もう古いことです。<指輪と万年筆より>

この話が母の打撃とどう関係があるのかというとこういうことなのである。
前回、「母の打撃」の時期に、時雨さんの弟の嫁が若くして亡くなり、残された赤ちゃん(甥の仁さん)を時雨さんが育てたということは述べた。
この弟のお嫁さんというのは新橋の芸妓春菜という人で、初期の美人伝「胡蝶の春菜」に登場する。(当然、時雨さんが執筆している方である。”美人伝”というと、中島桃果子版の読者にとってはこの連載を思うと思われたので念のため)彼女は結婚して3年後、はたち前の若さで肺結核で亡くなった。
10代で芸妓として活躍し結婚し二十を前に亡くなって逝かれたのだと思うと、こう、考えるところがある。

様々な文献にその春菜が臨終の床で、義姉の時雨の手を握りしめ「この子を頼む」と言い遺した際、その握った手が命の儚さとは裏腹にものすごく強く、時雨さんがその時していたダイヤの指輪が強く強く肉に食いこむほどであったと書かれている。その時に時雨さんはなんだかふと「もうダイヤはつけまい」と思った。

前回紹介した「評伝 長谷川時雨」には、時雨はじっさいに指輪と名のつくものを一生持たなかったが、吉屋信子には違った説明をしていると書かれている。

「ずっと昔、国技館で隣り桟敷きの芸妓のダイヤの石が爪台をはずれて落ちたという騒ぎで、座布団をふるうやら何やら血まなこで隣り近所の桟敷きの人が大迷惑だったのを見て、あたし一生あんなやっかいなものは身につけまいと思った・・・」

筆者の岩崎邦枝さんは、こちらの理由のほうが、美談ふうな誓いよりも女の心理としてもっともらしい。だが時雨は生母の顔も覚えていない仁には遺言と結びつけて語って聞かせたことがあるのだろう、と書かれている。

皆さんはどう思われますか?
わたしはこれは実は逆だと思っている。

この「こぼれ話」はwebでわたしが勝手にやっているということで、その意見の忌憚なさも多少は許されると思って書くと、

わたしにはなんとなくその手をグッと握られた時の感覚に共有できるものがあるのだ。20代で成功し、子を産んだりすることもなく好き気ままに芝居の世界で生きていてお金も自分のことに使えたりしたり、ダイヤの指輪などを身につけて飾ったりすることも自然な流れの中でしていた時雨さんは、
20歳を前にして子を残して無念のまま亡くなっていく義理の妹が伸ばしたその指が自分の指のダイヤに絡みつきそれがグッと突き刺さってくる感覚の中で、きっと何かを強く想ったのだと思う。それは言葉にならない感覚だが、じぶん、という生き様と、春菜という女性の生き様の、そこが交差地点だったというような感じ。その指から指輪を抜く、ということで「確かに何か感じた」というものをそれ以前以後のように歴史を割ることで彼女は心に刻んだのではないかなと思う。

また時雨さんは本能的に心動いて腹で決めて成したことをあまり他人に吹聴せずじぶんの中に秘めておくタイプだったと思っていて、だからこそ「渡りきらぬ橋」でも「あたしの手にそれは受けなければ、残された子は死にそうなほど弱かった」としか書かれていないし、三上さんのことも「あたしが支えて世に出したんですよ」ということを言ったりはしていない。

わたしとしては国技館の出来事も本当のことで「あ、やっぱりダイヤなんかしてなくてよかったわ」と思ったけれどそれは後付けのことで、
実際には奥にそういう物語がある、けれど時雨さんはお洒落が代名詞みたいな人なのに「指輪はしないんですか?」と他人に聞かれるケースは多々あっただろう、そういう時に”秘めたる大事な想い”を都度都度語るよりは、さらりとした別ストーリーを用意しておいたという方が自然な気がしている。
そしてこれは直感的なものだが、時雨さんは吉屋信子に対して、それを話すほど心開いていなかったと感じている。

そしてわたしが気になるのは三上さんがそういう全てのストーリーを踏まえて「これでダイヤでも買ってください」と言ったのかそうではないのかというところである。男の人だからそういう背景を特に知らず頓着せずに、ダイヤでも買ったらと言ったようにも思えるし、しかし三上さんはとてもモテる人で女性の心をくすぐるようなところもあった方だから、自分の妻が一切指輪やダイヤをしないのは知っていたであろうとも思われ、
だとしたら2万円を差し出し「ダイヤでも」と言うのにはどう言った想いがあったのだろうかなどと考えてしまう。
どちらにしろ「ダイヤ」とは時雨さんにとって特別なものであり、
三上さんが「これでダイヤの指輪でも」と言った言葉には、三上さんの意図はどうであれ結果的に普通の夫婦でダイヤを贈り合う以上に深い意味が出たのである。そして時雨さんはそのダイヤを要りませんというかむしろ・・・ということで「女人芸術」に替えたのであって、そこもいろいろ考えていくと深いところなのである。

それではまた、次回の「こぼれ話」で。
次回は三上さんを少し掘り下げられたらいいなと思っています。では!


✴︎ダイヤのくだりに触れている第3回の「時雨美人伝」は⤴︎こちらから読むことができます〜


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