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【2022年12月号】『#Tokyo発シガ行き➡︎』 "師走でも走らず"by 月イチがんこエッセイ

📣本エッセイは通常、滋賀県の本屋さん「がんこ堂」と我が店「イーディ」で配布後、ひと月以降にデジタルアーカイヴするのですが、
今月号はタイムリーさが肝心かと思うので同時公開いたします!

#Tokyo発シガ行き ⤴︎/#がんこエッセイ/より
装幀/長島佳之(mumumoon Design)

 pdfデータこちら⬇️
DLしてそのままでも、プリントアウトしてでも。プリントアウトされる方は出力時に「レイアウト」を選択しa4に4ページくらいプリントできる設定にするのがオススメ。わたしはゲラ直しの時、そうしてます。

今月号を読み終えたらこのマンスリーを見たくなるはずなので貼っておきます。笑。

なお今回のエッセイ、表紙デザインを去年の12月号になぞらえました。
去年の12月号はまだアーカイヴしていないのですが表紙はこちら。

去年は日の入りを年末になぞらえていたのだな。

こちらはこちらでアーカイヴ記事公開しますが、今日はここにも載せておきます。2021年と2022年、皆さんも比べてみて。
いろんなことを思うのではないかな。


今夜は日本とクロアチアの大一番⚽️✨
今日本当はこのことを月モカに書きたかったのですが「信じる」っていう行為は実は極めて個人的な、自分との約束なんだなと思った。
だからこそ「信じるっていいな」って思った。
なんでそう思ったかというと昨日のレバンドフスキの最後の1点を、わたしは信じて、最後までテレビをつけていたから。

それで思った。これでもしPKをレバンドフスキが最後に外したとしても(実際最初は外した)、レバンドフスキを信じるという行為が心からの敬意や愛由来のものだとしたら「信じてたのに!」とはならないんだなって、
「だったらハーフで寝ればよかった」ともならないんだなって、思ったので。


相手が自分であれ誰かであれ「信じる」という行為は自分自身のもので、それにまつわるリスクも自分のものなんだなって。
だからいいなって。「信じてたのに!」とかいうのは本来の「信じる」の足元にも及ばない行為なんだなって思った。

同時に自分も誰かの「信じてくれているから」という現象を、必要以上に背負う必要はないんだなとも。相手がわたしを信じてくれるということは、相手が相手自身の感覚を信じているという、相手の出来事であって、
それに必要以上に自分が過干渉というか過感覚になる必要もないんだなと思った。

最初に外したように見えたレバンドフスキも、最後に決めたレバンドフスキも、どちらも「最後まで生中継で見てよかった」と思う、レバンドフスキだったから。


がんこエッセイ/2022年12月号裏表紙

では、いつもそう言ってできていないですが、
明日からまたシクシクとがんこエッセイ、アーカイヴして行きますので、
しばしお待ちくださいませ!

がんこエッセイの経費に充てたいのでサポート大変ありがたいです!