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【時雨こぼれ話⑥】三上於菟吉という男<3> ”三上於菟吉と純文学”

「僕生まれてたった一枚でも、いわゆる身辺作家の悪作のような、意味はもとより、面白ささえないものは書かなかった。
僕は諸君のために、風癪して、路傍に裸おどりをしてみせ、満都の哄笑を買うことに得意を感ずるが、自己弁護の告白小説を書いて、鼻汁に染んだ紙を諸君の食膳の前に並べて見せるような陋態(ロウタイ)だけは誓ってみせまいよ。絶滅せよ! 無力にして醜陋(シュウロウ)なる贋札を!」
                   (中央公論「原稿贋札説」より)

大正末期から昭和初期に向かって、凄まじい勢いで「活字」というものが世に広がり、一部の富裕層だけが本を読む時代は終わりを告げた。それと同時に、エンタメの要素を含む、いわゆる大衆小説の時代が華々しく開幕する。
今小説家ですというと「芥川賞とか直木賞とか獲るの?(目指してるの?)」と、よく聞かれる。
なんとなくどちらも同じようなものとして捉えられているのだが、実はこれらは源流が大きく違っていて、芥川賞は純文学、そして直木賞は大衆文学に与えられる賞である。現在の出版界は、もはや「活字離れ」というジャンルに限らず文学がある意味の過渡期を迎えて、純文学も大衆小説も一丸となってここを乗り越えていかねば、または自然淘汰を受け入れて行くのか、というところだが、当時は「純文学」こそ王道と捉えられており、大衆小説は三文小説と呼ばれ、邪道であった。

(⤴︎前回のお話)

例えば先日アメトークで「テレビに出ている芸人たちに比べてYoutuberというのはどれだけ人気があっても少し業界的には下に見られる」というのが話題に上がっていたのだ。今はまだまだ「テレビがメジャー」「youtubeはマイナー」という図式が業界の中であるのだろうけど、おそらくこれって数年で引っくり返るかもしれなくて平成が終わり新しい元号が始まるこのうねりの中、マーケットは移動して、稼いでいるのはテレビに出ている芸能人よりYoutuberの方という時代が来る気配は十分にある。
こういったことが同じように大正から昭和に切り替わるうねりの中で起き、菊池寛、直木三十五、三上於菟吉などの新聞連載は空前の大ヒットとなり、彼らはスターダムに登り詰めていったのである。
要は、Youtuberたちがスターになり、テレビに出ている人はなかなか食べるのが苦しくなった、ような話。
ただ名誉(repitation)のようなものというのにはタイムラグがあって、ある年代以上の人はYoutuberなんかとずっと思っているだろうし、テレビに出ていたら懐具合はわからなくても活躍しているように解釈される。そんな具合で三上さんたちは売れてからも長い間、所詮邪道の人、という目線を背負いながら、なにくそ!とヒットを飛ばし続けてきたのだ。

前置きが長くなったが今日は三上於菟吉と純文学について書こうと思う。

(⤴︎ 三上於菟吉「傳奇 敵打日月双紙」大正15年に発刊)

押しも押されぬ流行作家になり、書くもの書くものが飛ぶように売れるようになってからも、三上於菟吉や直木三十五、菊池寛などは皆、
じぶんも本当は心の奥から湧き上がってくるような、書きたくてたまらないような、自身の小説というのを書きたい、と思っていた。
当時の大衆小説をイメージしてもらうと現在の昼ドラがとてもしっくりくる。実際、菊池寛の「真珠夫人」などは、つい(と言ってよいかなこの時間の幅でいうと)数年前に昼ドラで放送され、大ヒットとなった。
当時の大衆が求めていたものは昼ドラを見ている人たちに重なるところがあって、それは平坦ではない、息もつかせぬ展開であり、ラヴストーリーがあり、しかし障害もあり、ジェットコースターのような起承転結であり、それはやはり一言でいうと芸術ではなく「エンターテイメント」であった。彼らは(少なくとも三上さんは)十分に純文学を書いていける素養もあられたと思うが、職業としての、物書きに徹していた。

原稿用紙というテーマパークの中に、読者が望めば、ジェットコースターを据え、お化け屋敷を据え、ちょっとしたレストランや売店も作り、皆が飽きずに楽しめる工夫をした。それがニーズであり、それをすることが「仕事だ」と彼らは考えていたからである。だからこそ、テーマパークの中に、これといった凝縮されたモチーフもないまま、手入れの行き届かない盆栽を一つ置いて、努力をすることもなく、何か自分の命や血を削るほどの覚悟もなく、これが芸術だ、文学だなどと言い、原稿料をもらって平然としている人間(身辺小説作家=いわゆる私小説作家)に対して、三上さんは「贋札(くだらない原稿)を本物のお金に換えている、恥を知れ」と、罵ったのだ。

三上さんは本気で純文学を志していた。
けれども自分に吹いてきた風は大衆文学のそれであったので、三上さんはその風に乗ることを決めて「三文文士」として生きていくことにした。(これは大衆小説がどれだけ人気を博しても一部の有識者?たちには所詮三文小説と言われた時代の所以である)
だからこそ、純文に生きる人間にはとことん純文に生きて欲しかったのではないか。半端なところで手を打ち、私小説が流行りと見れば、日々の日記にちょっと色をつけた程度のようなものを書いてそれを文芸誌に載せている人たちに対して、三文小説と呼ばれようが、当たるものを書くにはそれだけの情熱とエネルギーを使い書いている、だからこそ「それでいいのか、誇りはないのか」という怒りがあったのだろう。

(⤴︎挿絵/ 長谷川春子。時雨さんの実の妹で、女人芸術最初の1年目の立役者とも言える。彼女が留学してから女人芸術は左傾を始めた)

またアメトークの話を引き合いに出してしまうのだけれど、
芸人の中で「ボケ」から「ツッコミ」に転身した人間はそれと似たような思いをしているらしい。
つまり「ボケ」とは天才的な何かが必要で、それに力及ばずということで「ツッコミ」に転身するのはどちらかというと意識高い、志高い芸人たちで、彼らはゆえに「生ぬるいボケ」や「努力すら伺えないボケ」を見ると、はらわたが煮えくり返るような気持ちになるらしい。
純文学と大衆文学の関係性は、ある意味お笑いにおけるボケとツッコミのそれと似ている。

中央公論に掲載された「贋札」に関しては、三上さんが売れに売れて、凄まじいスピードで同時にいくつもの連載をこなしていた時に、自らを「紙幣製造機」とあざ笑ったことがあって、きっとその影響があるのだろう、
「紙幣」「贋札」という言葉は似ているし誤解を呼び、冒頭に引用した中央公論の「原稿贋札説」は、自分の原稿は贋札を作っているようなもので無責任にいくらでも書きとばしているのだ、という風に誤解されてしまった、と、この「こぼれ話」で何度も引用させていただいている「わたしの大衆文壇史」で菅原さんは振り返っている。

菅原さんはまた「三上さんほどジャーナリストによって、中傷され、誤解された作家を知らない」と回顧している。

「講談社においても例外ではなかった。意気地のない編集者は、原稿の取れない理由を、すべて三上さんの暴悪に帰して報告した。私はいつも片腹痛い思いできいていた」   (「わたしの大衆文壇史」より)

わたしが三上さんという作家に対して感じることは、どこまでも「書く」という行為に対して真摯な人であった、ということである。

それは年上の恋人(長谷川時雨)に生活を支えられながらも結果を出せずに悶々とした気持ちで日々を送っていた赤城元町の頃からきっと一貫していて、作家の卵どころか、まだまだ作家志望、くらいの段階だった林芙美子の書いた小説を、デートの最中に受け取り、その場で読むというエピソードにも伺えるし、女人芸術が満3周年号を迎えるにあたり左傾を始め、いっその事、名前を「女人大衆」に改題すべきだという意見が出てきたことを誌面で論じた際の「芸術でも大衆でも名義はどっちだっていいと思ふ。僕は内容の徹底を切に望む。不熟な知的デパートであるより懸命な生活観、生活主張を僕たちは読みたい」という手厳しい回答にも伺えるのである。

「女人芸術」に関しては”玉石混交(ぎょくせきこんこう)”と言われたすべての巻にひととおりわたしは目を通したので、三上さんの言いたいことはとてもわかるなあと思っていて、例えば今年問題になった新潮45の「そんなに悪いか杉田水脈」に関して、内容うんぬんをさておき、例えばその文章が、歴史ある出版社の発行する冊子に載せうる体(テイ)であり、ひとつの放物線を持って着陸するそれなりの文章であったとしても、わたしが一番不思議に思うのは「なぜこのひとはこれをわざわざ書いたのだろう」という、筆者の動機である。

ありとあらゆるバッシングや向かい風を受けてもこれを書き残して起きたかったという”懸命な生活観” ”生活主張”がこの文章から、感じ取ることができない、それゆえに(頼まれて書いたのでは)(なんらかのしがらみの中で、または話題性だけで安易にピックアップしたモチーフだったのでは)という政治的またはゴシップ的なものを感じるし心に残らない。
それと比べると数年前の「保育園落ちたわ日本死ね」という記事には、素人のブログという文章の奥から、忸怩たる思い、まさに”懸命な生活観” ”生活主張”がにじみ出ている。

今回この2つを例として引用したのは「女人芸術」がそれらの清濁を併せ飲んで存在していたからである。また別の「こぼれ話」で詳しく書くが、
貧しさの中で仕事にも就けず、自分の母乳を金持ちの家の赤ちゃんに売る仕事をした女性の手記、契約の中に「じぶんの息子には乳を飲ませてはいけない」というのがあったので、すくすく成長していく坊っちゃまと、日に日に痩せていく自分の息子との狭間で泣きながら乳を売った、そんな”大いなる動機”に突き動かされて躍動する物語(「乳を売る」松田解子)もあれば、
当時流行ったカタカナや思想(「アナーキー」とか「プロレタリヤ」や「ソビエト」など。今でいうLGBTや改憲問題など)を羅列しただけで結局何が言いたいのかわからないものもたくさんあって、
それらを三上さんは、やっぱり隅々までちゃんと読み抜いて、
あの苦言を呈したのだから、本当に「書く」ということに対して誠実だったのだなあと思う。

時雨さんの晩年まで仕事を助けた杉山美都枝さんによると、三上さんが流行作家として最盛期の頃に自宅の書斎で「今だってオレは純文学をやりたいんだよッ」と一度や二度ならず怒鳴っていたらしい。
時雨は夫の大声のひとりごとを「またあんなこと言ってるわ」とかまいつけない顔で聞き流していたのだとか。(岩崎邦枝「評伝/長谷川時雨」より)

「桃果子の時雨美人伝」の第4回 ”長谷川時雨の女人芸術”でわたしは、冒頭でこの偉大なるパトロンについて触れました。

三上さんが女人芸術をまる4年にわたり、莫大な費用を出資し続けたこの背景には、妻に対する度重なる放蕩へのお詫びや、これまでの支援に対する感謝ももちろんあっただろうけども、やはり「純文学を志したもの」として、
その王道を常に真っ向から歩いていこうとする長谷川時雨への讃歌でもあったのではないかと思う。彼はその右手で大衆文学を書き続け、得たお金をその左手から「女人芸術へ」流し続けた。

人は自分が憧れ続けてでも成しえなかったものに、無条件に恋い焦がれ、崇拝し、ロマンを感じ、惹きつけられる。ここがこの夫婦の面白さで、
三上於菟吉は、男という意味では長谷川時雨という女をものにしたけれど、
常に純文学(大きく分けて)、芸術的文学の王道を歩き続ける長谷川時雨という芸術家には、生涯憧れと尊敬があったのではないか。
だから出資という関わりかたは、ただスポンサーというのではなくって、
三上於菟吉にとっては一つの芸術文学との関わりであり、それは彼にとっては嬉しいこと、誇らしいことの一つであったとわたしは思う。
彼女の中にいつも灯されている芸術の火、それはきっと、三上於菟吉がその生涯においてじぶんも灯してみたかった、たった一つの燈(あかり)であったのではないか。
そしてその夫婦が「春光の下で」というたった一つの、三上於菟吉の純文学作品で出会い結ばれたというのもとても興味ぶかい。純文学で契られたふたりは生涯離れることができなかった。

この「春光の下で」は、一体どんな小説だったんだろう。
一度読んでみたい気が、前からずっとしているのだけれど。

今日は「三上於菟吉と純文学」ということで、彼の本の表紙の写真展開してみました。この装幀写真たち(↑)は「みずすまし亭」さんという方からお借りしています。貴重なお写真、ありがたい。
なんとこの本、挿絵は長谷川春子、時雨さんの妹だそう。
こんなコラボもしていたのね☆

⤴︎お写真拝借元の記事。みずすまし亭さんのブログです。このあと解像度の高い写真をわざわざ撮影して記事にしてくださいました。それがこちら。
みずすまし亭さんの記事からも、ベタで同じような展開の大衆文学を書き続ける三上於菟吉の苦悩は垣間見ることができるかもしれません。

それではまた!!
※次回は「三上於菟吉と片山廣子」の続編を書きます〜

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