見出し画像

アーカイヴ月モカ❗️ /Vol.2「 ーSPEC—世界はひとつじゃない」(2015.03.09)

ハイ。毎回冒頭に回顧エッセイを少し足して補足しながらいくことにしよう。だって6年前の投稿である。あまりにもタイムリーじゃないからね。
先週わたしはこのエッセイを4月くらいに始めたと思っていたがなんと初回は3月2日であった。アラビヤから帰ってきてまだあまり日が経っておらず、自身に訪れた人生の転機を、まだうまく処理できずに日々を過ごしている感じが、このエッセイから伝わってくる。

そうだね君、そこから一旦古代イスラエルとかシュメール文明とかあらかた調べて、ちょっとスピリ!な感じになるけど、また一周回って地続きの日々に戻ってくるよ。そしてやはり地続きの日々からしか誰かに何かを伝えられないのだという結論に達して、究極の私小説を書くよ。そこまで5年かかるから気長に頑張ってね。あとその私小説、賞に応募するけど、箸にも棒にもかからないんだ、でも大丈夫、まさに「魔女と金魚」君は女神を取り戻し、また彼女と組んで本を作るのだ。
そしてその後のストーリーは、2021年5月3日現在、君からすると未来のモカコにもまだわからない。

画像1

部屋。この部屋。これこそまさに、あのエピファニーを受けたリワ砂漠の部屋。変圧器を通してコンセントに挿していたはずのバッテリーがバチン!という音とともに煤(すす)けて、その直後に、声は降ってきたんだった。

そう、

「生き死ぬるもの双方に光を与えよ」

画像2

これに関してのエッセイをこの後のタイムラインとしては4年後に書くことになるので、今となっては2年前の過去だが、こちらです。

不思議なことに、過去のエッセイをこうして掘り起こすたびに何かが起きる。先週は全く同じタイミングでうちの栞(我がファンかつイーディの珈琲部門を担当)が「東京百景」を購入していたというシンクロがあったのだけど、今週も、ある。

スクリーンショット 2021-05-03 19.47.12

以下に綴られている「地球が2つになる」という案件だが、わたしはそれ、実はつい数日前の2021年4月30日→5月1日になるタイミングに、とうとう起きたのではないかなと感じていた。理由は、一瞬の間に、銀行のキャッシュカードが1枚、忽然と消えたから。
また詳しく書くが、被害はなく、手続きもスムーズで、ただ一点、ほぼ強制的に「座標」を書き換えさせられた。座標、神秘的に言ってみたが、いわゆる住所である。住所、アドレス、現在地。その瞬間に思わず、この記事のこと、というか当時見たおかしな(失礼)Youtubeのことを思い出していた。近い未来地球が2つになります、というYoutubeのこと。
あれが6年も経ってもしや今起った!?
そんなことをぼんやり考えていたから、この記事を見て、このアーカイヴは、やはり何かを掘り起こしてゆく作業なのではないかなあ、と思う。
これまでの軌跡をもう一度振り返りながら前に進んでいく、
まさに温故知新の動詞現象。

カードが忽然と消えたあのとき、わたしは、ヌーヴェルEARTHに移行したのではないだろうか(笑)あまりにも奇妙な出来事だった。

画像4


✴︎   ✴︎  以下アーカイヴ ✴︎   ✴︎
月モカアーカイヴ/ Vol.2「 ーSPEC—世界はひとつじゃない」

画像4

魔法使いになるための訓練をかつてしていた。
夜、寝る前にいくらかの塩水を飲むこと。
簡単そうでけっこうきつい。からだにもいいのかわからない。
おそらくうちのママも魔女とか魔法とかにまつわることが好きだったので、
「うっ」という顔をしながら、頑張って塩水を飲んでいるわたしの思いを優先して黙っていてくれたのかもしれない。
運動神経がわたしはとても悪いのだが、魔法があれば運動神経は関係なくなるはずなので、適度な幅の溝を、日々飛び越える練習をしていた。
あるとき途端に着地際に体が滞空時間を伸ばして「あれあれ」と思う間に、
溝とは呼びがたいくらい広い幅のものを飛び越しているかもしれない。
(だがそのあるとき、はなかなか来ない)

 この数行だけでも何回使った!?という「かもしれない」という心もとない感覚を信じて修行を繰り返していたが、いっこうに成果がでないことに悲しくなっていつしかそれらもやめてしまった。
(とくに塩水をコップ一杯飲むというのは、一見“そんなことで魔女になれんのか!簡単や!”という感じがするのだが実はなかなかに苦痛をともなう。いまはもっぱらその濃さの塩水で花粉のついた眼球とか喉を洗っている)

 そんなわけだから、大人になっても「どこかに魔法が!?」という気持ちがぬぐえずに世界を見ている。隠れ魔女っ子ファンなのである。
 それが昂じて「魔女と金魚」という本も出版した。(よろしく)

画像5


 またわたしが魔女っ子ファンであるせいか、魔女のような人—いうとなにか負のイメージがあるので、いわゆる最近の言葉でいうとシックスセンスのような人達—が、わりと定期的にわたしの前に現れるという面白いことがたびたび、ある。先日もクリスマスイブの日に初対面の人に「きみ、近々伊勢神宮に行きなさい」と言われた。クリスマスイヴというなんか特別な気分のする日にそう言われて、信仰が混濁した状況ではあるがとにかく肯いた。
 
 長年こういう感じで、「占い」なんていう女の子ならだれもがやることから入って、易とか、気学、風水とか、占星術とか、スピリチュアルとかをざざっとたしなんで、またそういう力がある人と会ったりしてゆくと、いろいろわかってくるのは、全然ジャンルの違う人達も割と言っていること、向かっていく方向に関して同じことを言っているということ。

ここからが本題で、「SPEC」なのだが、昨日改めて翔〜結までを見直して、
こんなにも、歴史を調べた上でもしかしたら今ほんとうに起こっているかもしれない、かもしれない、ことを、完全なエンターテイメントとして結実した作品はないなという結論に至って、つくづく感心してしまった。深読みモカ子は、もしかして堤監督ってその筋のひと!?って思ったくらい。
 
突拍子もないことをひとつ言うと、最近なにかとわたしの目に細胞に直撃してくるワードは、
「地球が、または世界が、ゆくゆく二個になる」というモノだ。

え?地球が二個に!?エッ、エッ、、エエーッツ!?

って感じになるのだが、これも概念は様々で、細胞分裂のように地球自体が二個になるという解釈、己が信じる己の世界に各々は居つづけて、実はすこしずつ世界は離れてふたつになっていくという解釈、いろいろある。
このトピックについて考えていたところだったので、
まさかSPECのエンディングがそういうことになって、テロップに紛れてそういうメッセージが放たれていることにわたしは大変びっくりした。

わたしなりに考えた結果、こういう考えがどこから来ているかというと、
(つまり「彼」とか「神」とかそういう風にメッセージがどこからか放たれていると考えない場合)

「ものの終わり」に対する価値観の差かなあ、と思う。
昔、ある絵本で、なんでも食べちゃう怪獣くんが、世界中のものをぱくぱく食べて、最後はこの本も食べちゃった、だからこの本は終わり、です、と、最後のページが真っ白になって終わる絵本があった。
そう考えると「終わり」って一体なんなんだろう。
本当にその絵本のように真っ白に終わる?

画像8

 でも大抵の「終わり」は何かの始まりを兼ね備えている。
 ということは世界の終わりには、何かが始まるのか?

わたしは、ほんとうは、二個っていうのは二個じゃなくて表裏のことだと思っていて。抱き合わせにある概念の二つの側面という風にも思う。
光があたっている場所の裏側は現在夜であるみたいに、わたしたちが居るこの場所の裏側にーもはやそれは裏ではなくねじれのようなものなのかもしれないけどー知らない場所があって、同じ強さで光っているのかもしれない。
 例えば一年半前に亡くなったおばあちゃん。おばあちゃんの死からしばらくの間はその「喪失」に心臓が止まるくらい苦しんだ。
 でも、ほんとうにわたしたち家族は彼女を「喪失」したか!?
結果、おばあちゃんはうまくは言えないが常に、いる。
心の中に。とかいう慰みのニュアンスでも、いやいや成仏させてあげて。とかいう引き留めの感じでもなく、ちょうどの感じでどこか、遠いけど近い場所にいる。わたしたちは彼女を失ってはいないのだ。

画像7

 こういう変なことを小さな頃から考え続けているので時にちょっとアブナイ人だと思われる。

 UAEの滞在中、リワ砂漠の街で一泊した。朝、テラスで、フルーツを食べていたら、急に言葉が浮かんだ。
『生き死ねるもの双方に光をあてよ』
浮かんで、同時に浮かんだ本人のわたしが意味がわからない。

え?どういう意味?
とっさにわたしは、フルーツを食べてないものと食べかすにわけてみた。

画像8

たしかにお皿は二枚あった。
わたしたちはもしかしたら、食べかすの方の世界を「世界」と認識していないのではないか? とか考えてみた。

では双方に光をあてよとは?

まだいまもわからない。

いまのところわたしは、先週にひきつづき、世界のことを話しながらちっぽけな自分と格闘しつづけている。

画像9

☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。

がんこエッセイの経費に充てたいのでサポート大変ありがたいです!