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あの日聴いた幻惑が鳴り止まない

私が椿屋四重奏を知ったのは高校生の時である。

長いが、当時の背景の話をさせて欲しい。何しろ16年ほど前の話をするので、現代のカルチャーの出会い方とまるで違うのだ。同年代の人は懐かしい話である。

当時は現在と違って、音楽定額配信サービスがなく、レコメンドなどしてくれない。友人が聴いている音楽に影響されたり、自ら音楽情報を取りにいく。聴いている音楽が強いアイデンティティのひとつだったのである。

当時流行っていた音楽は、浜崎あゆみやEXILEの第一章(SHUNがいた頃)。今聴いても優れたボーカルと一流の製作陣とのタックが素晴らしく、きらめきを感じる。でも、当時の私はギャルの聴く音楽だと思っていたのだ。

なぜなら、音楽と服装の雰囲気が友人関係とリンクしやすい風潮があったからだ。Instagramなどはなかった時代なので、限られた高校生のお小遣いの予算ではジャンルのミックスは難しかった。月に買える雑誌の冊数は限られている。

私はギャルになる自信とか、社交性とかそういうものを持ち合わせていない。原宿系のZipperとかCUTiEに憧れつつ、カジュアルなSoup.を読む。つまりは普通の地味な女子高生だったのだ。

地味な女子高生が走りがちなのはバンドである。こんなすごいカルチャーを知っているのだと自尊心を満たすのだ。

(ちなみにバンド好きが一概に地味である、という訳ではない。PIZZA OF DEATHが好きな人は明るい傾向にあるし、実際にバンドを組む人は、華のある人が多かった。ただライブ以外の音源を聴くという行為は、大抵一人なので世界に深く潜りやすい。)

今でも若い新規ファンを獲得し続けている、BUMP OF CHICKENやRADWIMPSが当時のカリスマ。(それらを一通り聴くと、さらに新たな音楽に出会いたくなる。勉強も部活もあったとはいえ、高校生には時間と体力が有り余っていた。

インディーズ、それも地元宮城県デビューのバンドを調べよう。あまりメジャーではないバンドのことを知っているのは、音楽定額配信サービスやSNSが発達していない当時では通ぶれた。

私はTSUTAYAの近くに住む、地方サブカル好きの勝ち組である。高校生のお小遣いではまあまあ高い音楽専門雑誌が立ち読みでき、CDレンタルも返却も通学途中にできたのだ。ついでに友達が借りたCDも返していた。決してパシリではない。

TSUTAYAには地元結成バンドのレコメンドコーナーがある。THE YOUTH、クラッシュ・イン・アントワープ、MONKEY MAJIK、椿屋四重奏……私はそれらのバントを若い頭に丸暗記して、その日は帰った。女子高生の財布の中身なんて高が知れている。

レコメンドコーナーの中に、明らかに字面が堅いバンドがある。多分私はそういうのが好き。椎名林檎と東京事変が好きなのだ。

私は椿屋四重奏の「舌足らず」を着うたフル(ガラケーの着信音を買う文化があったのだ)でダウンロードした。演奏のことは全くわからないが、やたら繊細で、それでいてギラギラしてる。翌日「椿屋四重奏」と「深紅なる肖像」を借りてきた。着うたは友達に聴かせたが、反応はイマイチ。

私は部活が忙しく、バイトができなく、仙台に住んでいるわけではなかった。(宮城県では大抵のバンドは仙台のライブハウスで演奏するのだ)なので、少ないお小遣いでCDを借りながら、地元結成の恩恵で、FM局のレギュラーラジオを聞いている程度のファンである。

2006年、「椿屋四重奏に新メンバー、ギタリストの安高拓郎が加入し、名実共に四重奏になる」いうニュースを目にする。それまでは、「“3ピースバンド”なのに、なぜか“四重奏”」だった。そのニュースを知った私は複雑な気持ちになった。

実は、安高拓郎こと通称やっちんは、正式メンバーをして加入する前、サポートメンバーとしてライブに参加している。

ライブ名は会場の九段会館から「九段心中」。サポートキーボードを含めた初めての5人編成ということもあり、ファンが書いたライブレポはあまり芳しくない。

ギタリストの加入は本当に必要だったんだろうか?と失礼ながらに思ってしまう、そんな空気感が当時のファンのなかにあった。

しばらく経ち、椿屋四重奏の新譜が発売された。いつもCDはレンタルするのだけど、シングルCDが安かったことと、美しいアートワークに惹かれて珍しく購入を決める。型押しのアンニュイな女性の横顔、大理石のような模様のジャケットなのだ。

私は、たまに母親お弁当を作らない日に発生する、お昼ご飯代をCD代に充てることにした。節約のために、パンとおにぎりみたい1つずつ、みたいな組み合わせにしたので当然太ってしまう。

あの開けづらいビニール梱包を外して、いそいそとコンボにCDを収めた。

ヘットホンからギターが殴りかかってきた。カッティングの効いたギターと、歌うようにコード展開していくギターが鳴り止まない。フェードアウトしていく2本のギターをいつまでも聴いていたかった。

ギターソロを含め、大半の音源は中田裕二の演奏によるものである。だけど、ラストのフェードアウトは中田裕二とやっちんのフリースタイルで、自由に楽しそうに泳いでいるフレーズが印象的。これは四重奏になるしかないのだと思い知った。

「その傷を舐め合った」の歌詞で手首を舐め上げる姿に、16の頃にブラウスなど破けたことのない、地味な17歳は堕ちていく。MDプレイヤーにイヤホンを繋いで布団の中に潜り込み、ボーカルの吐息混じりの破裂音に「大人だわ……」と思うなどした。

それからというものの、きっとこのバンドは売れるに違いないと思い、熱心に聴くようになる。私の社会人になった年に、椿屋四重奏のメジャーデビューが決まる。私は初給与を握りしめ、デビューシングルと共に過去音源を買い漁る。そして、念願のライブデビューを果たすのだ。

「幻惑」は曲の最後、終わらないギターの掛け合いが魅力的だと思う。ただ、ライブは曲を終わらせなくてはいけないので、アレンジが違う。個人的には、いまいちライブ版のアレンジが好きではない。曲の終わりがしっくりとしないのである。

3人時代に作られた、「熱病」も同じく音源は終わりはフェードアウトで、ライブは別アレンジだけど、しっくりきていた。この違いは何だろう。

やっちんは、クラッシュ・イン・アントワープの解散後、椿屋四重奏に加入。クラッシュ・イン・アントワープでのギターはパンクで、ライブ感のあるプレイが持ち味だった。中田裕二の職人っぽい繊細なアレンジとは相反するものがある。それは初めから分かっていたはずだ。

四重奏で行こう、バンドスタイルでやろう、とするもがきが、ライブや音源に感じた。そして、2010年やっちんは脱退していった。互いにギタリストとして尊敬したからこそ、噛み合わなかったのだと、個人的に思っている。

「必ず武道館に立ちます」たびたび中田裕二は口にしていた。私はさほど収入のない会社員だったために、遠征をするタイプのファンではない。それでも、椿屋四重奏が武道館の地を踏んだ日には、必ず行こうと誓っている。

私は未だに武道館でライブを観ていない。
2011年に椿屋四重奏が解散したからだ。
「武道館連れてって」
いつの日か夢は覚めてしまったのだ。エセ南の。

私は「幻惑」を聴いたときから、あの4人が武道館のステージに立つ姿を夢見たのだ。あれは、ありもしない幻だったのだろうか。

確かに高校生の私がCDで聴いたときは、希望で満ちあふれていた。四重奏の始まりの音楽だったし、私がファンになる始まりの音楽だった。「幻惑」がなかったら、やっちんがギターを弾かなければ、私はここまで椿屋四重奏にのめり込むこともなかったのだろう。

今でもたまに「幻惑」を聴くと思い出す。
純粋にかっこいいと思うバンドを追いかけた、若かった私のことを。


椿屋の亡霊によるレポートです。
ご興味あったらどうぞ。


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