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Mo Chan

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不思議なご縁により、会津の古代史を探る旅が始まりました。 堅苦しくない、自由な発想で、書き進めます。
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記事一覧

【柳津の土偶状装飾付き縄文土器】

■向かい合う人型の装飾■ 今年の一月、福島県柳津町の「やないづ縄文館」で保管していた土器…

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1年前
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埴輪が語る力士、「おさげ」のルーツ

   ◇◇鳥追観音の「なで仏」◇◇ 西会津町野沢の鳥追(とりおい)観音・如法寺(にょほうじ)…

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1年前
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【川港「津川」から御神楽岳、会津への道】

                      ◇会津藩の重要拠点「津川」◇ 7月の初めに、新…

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1年前
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【伊佐須美神社の双身歓喜天~其の二】 

 ◇関東へ入植した半島からの渡来人◇ 7世紀の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済が競う三国時…

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1年前
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伊佐須美神社の双身歓喜天

父の実家は大沼郡高田町(現・会津美里町)にあった。 お盆に帰省すると、決まって近くの伊佐…

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1年前
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喜多方の熊野比丘尼

江戸時代のはじめ1611年、会津地方を襲った直下型地震(慶長会津地震)は、倒壊家屋が2万戸余…

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2年前
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『喜多方・熊野神社と高麗橋』

11月の中旬、喜多方の新宮熊野神社(慶徳町新宮)は、ご神木の大イチョウが見事に色づいていた。神社創建の際に植えられ、樹齢は800年以上と伝わるが、拝殿「長床(ながとこ)」と並ぶ景観は実に壮観だ。 国の重要文化財「長床」は、熊野信仰修験道にともなう特殊な建物である。平安末期から鎌倉初期の建立で、44本の太い柱が支える吹き抜けの構造だが、1611年の大地震で倒壊した後、幾度の補修により現在に至っている。 会津風土記などによると、当社は中世の隆盛期には東北における熊野信仰の一大

【水でつながる会津の古代史】

民謡「会津磐梯山」には、「恋の滝川 舟石越えて 親は諸白(もろはく)(エーマタ)子は清水(…

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2年前
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【磐梯山信仰と大伴修験のルーツ】

2年前の春、車を飛ばして、北陸から新潟へ日本海沿岸を巡り、阿賀野川沿いに会津盆地に入ると…

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2年前
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【十一面観音と会津の古代仏教】

今年のゴールデンウイークこそは、会津の旅を楽しみにしていたが、どうにもコロナが収まらない…

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3年前
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【虚空蔵菩薩から古代会津を考える】

今年は丑年。年男となった私の守り本尊は「虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)」である。 子供の…

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3年前
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【鬼渡神社と山の民の足跡】

昨年末、会津好きの面々で忘年会をした。場所は都内にある、三島町産会津地鶏専門店。お任せで…

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3年前
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会津の成り立ちと移入文化

◇11月初めの連休に会津若松に行った。 流行病のせいでしばらくのあいだ遠出ができず、ちょう…

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3年前
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【舟形木棺の意味するもの】

                      ◇古墳時代の代表格といえば、前方後円墳だ。上空から見れば、巨大な鍵穴のように見えるこの墳丘を「前方後円」と名付けたのは、江戸時代後期の儒学者、蒲生(がもう)君(くん)平(ぺい)(1768-1813年)だ。  当時、この墳丘が一般に「車塚」と呼ばれていたことから、高貴な人を乗せる牛車の姿を思い浮かべた。古墳を横から見て、低い前方部は牛が引く2本の長柄で、丸い後円部が貴人の乗る車。つまり、車は牛の引く長柄の方向へ進むから、前方としたの