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【伊佐須美神社の双身歓喜天~其の二】 

 ◇関東へ入植した半島からの渡来人◇

7世紀の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済が競う三国時代である。
今の北朝鮮のあたりが高句麗、半島の東側には後に朝鮮半島全体を統一する新羅、西側には百済があり、その百済と当時の倭国(日本)は良好な関係だった。

660 年、新羅と唐の連合軍が百済を滅ぼすと、倭国は百済復興のために出兵するが、663 年に白村江はくそんこうで大敗。
その結果、百済の王族や貴族の大部分が日本に亡命し、大勢の難民も倭国に移住した。一方、新羅は勢いづき、668 年には再び唐の力を借りて高句麗を滅ぼす。 
このような朝鮮半島の相次ぐ動乱により、百済と高句麗だけでなく、勝者の新羅からも大勢の人がこの倭国に渡ってきた。これらの渡来人は、九州や山陰、近畿地方に住み始めるが、時を経ずして関東地方にも移動してくる。

716年、政府は東海道7ヶ国に住む高麗人(高句麗からの渡来人)1799人を移住させ、武蔵国に高麗郡(こまぐん)をつくった。
今の埼玉県日高市・飯能市・鶴ヶ島市の辺りである。初代郡司に任命されたのは、高句麗王族の「高麗(こまの)若光(じゃっこう)」だった。
東海道7ヶ国とは、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野(しもつけ)だから、ほぼ関東一帯にいた高句麗からの渡来人が集められたことになる。1799人という細かな人数まで書き記すほど、時の政権による一大事業だったに違いない。

高麗郡がつくられた40年後に新羅(しらぎ)郡(ぐん)も建郡された。
現在の埼玉県和光市・朝霞市・志木市・新座市の辺りだ。『続日本記』では「日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、はじめて新羅郡をおいた」と記されているが、僧侶の入植が多いことに注目したい。渡来人の入植には、彼らの信仰も深く関わっていたのだろう。
武蔵国に高麗郡と新羅郡がつくられたのは、埼玉県内に北朝鮮市や韓国市ができたようなことで当時でも極めて異例のこと。
そう話すのは、大東文化大学の宮瀧交二教授だ(「新羅郡の時代を探る」シンポジウム、平成 30 年 11 月)。
百済郡だけが都のあった近畿に置かれ、高麗郡と新羅郡が武蔵国につくられたのは、当時の朝廷の政策で唐に学んだ「日本型の中華思想」なのだという。
8 世紀の初頭頃、未だ律令制度が進んでいなかった東北地方の人々を「蝦夷(えみし)」と呼び、関東地方までが日本とされていた。
日本の同盟国だった百済からの渡来人は中央の近畿に置き、高麗郡・新羅郡は関東に置いたという。

高麗神社(埼玉県日高市)

 ◇会津の豪族と四道将軍◇

崇神天皇10年に、諸国鎮撫の為に四(し)道(どう)将軍(しょうぐん)を遣わしたとする出来事があった。
おそらく3世紀中頃のことで、記紀によればこの時大彦(オオビコ)命は北陸道を、その御子武渟(タケヌナ)川(カワ)別(ワケ)命は東海道を北上し、ついに相津(会津)で往き遭った。
この父子将軍の会津入りは、会津大塚山古墳の主への表敬訪問だという(鈴木啓氏『新しい会津古代史』)。
この時、蝦夷のクニとの間に楔を打ち、以後東・北方の情報収集と提供を約束した。崇神は関東平野を内国化するためには、会津を先ず押さえる必要があると判断したのだ。

3~4世紀の会津盆地では、3地域の豪族が競い合うように多くの古墳を建造したが、そのうちふたつの地域に注目したい。
先述の会津大塚山古墳とは、会津若松市の「一箕古墳群」にある前方後円墳(4世紀中・東北地方で第4位の規模)だ。
この古墳からは三角縁神獣鏡をはじめ多数の副葬品が出土し、大和王権とはかなり親密な関係にあったと考えられている。
また、近くにある2基の大型前方後円墳(飯盛山古墳・堂ヶ作山古墳)は血族の墓である可能性も指摘されている。オオビコとタケヌナカワワケは事前調査の末、何代も続くこの地の豪族を見事に懐柔したのだろう。しかし会津盆地の豪族の中には、大和王権に従う者とそれ以外の道を探る者がいたはずだ。
会津盆地の西北部、会津坂下町から喜多方市にかけて「宇内青津古墳群」がある。東北第2位の規模の前方後円墳(亀ケ森古墳・4世紀後半)をはじめとして、16基の古墳が存在する全国有数の古墳群である。
西暦540年というかなり早い時代に、中国僧・青巌が直接会津に入り布教をしたと伝わる高寺山もこの地域にある。青巌の存在を示す遺物はまだ見つかっていないが、この地の豪族が青巌を招き入れ、仏教による新たなクニ造りを行ったというのが私の見方だ。事実、青巌を祖とする高寺仏教は大いに発展し、最盛期には堂宇・子院は三千に及んだとされるが、775年にそのすべてが焼き尽くされてしまった。
これがいわゆる「勝負沢の戦い」だが、その背景は後で考える。

さて、『続日本紀』769年に、「会津の人、丈部庭(はせつかべのにわ)虫(むし)」等二人がそれぞれ「阿倍(あべ)会津(あいづ)臣(おみ)」の姓を賜ると記されている。
鈴木啓氏によれば、丈部とは大王家の警護や雑役を行い、大王の命令を地方豪族(県(あがた)主(ぬし)や国造(くにのみやつこ))に伝達する任務もあった。
丈部はオオビコの後裔で、丈部を管理した伴造(とものみやつこ)が阿倍氏とされる。
オオビコとタケヌナカワワケが大塚山古墳の主を訪れたのは、その主を会津県主に任命する目的があったというが、そう考えれば、大和王権時代の四道将軍と一箕古墳群の豪族、そして奈良時代の丈部庭虫などの有力者たちが、一本の線でつながってくる。

会津大塚山古墳(会津若松市)

 ◇カササギと双身歓喜天◇

会津美里町の伊佐須美神社は、843年に従五位下の神階が授与されるまでは無位の神社だった。
ところが『延喜式』(927年)では「名神大社」として会津郡における最高神の地位となる。
それまで社格が上位だった磐椅(いわはし)神社(猪苗代町)と入れ替わった形だ。
伊佐須美神社が、伊弉諾尊・伊弉冉尊を勧請して天津神に列したためとも言われるが、さらに、興味深い考察がある。

郷土史家の前田新氏は『会津・近世思想史と農民』の中で、伊佐須美神社の軍団が宇内青津古墳群の豪族の平定に加担し勝利したからではないかと述べている。
ここで先述の「勝負沢の戦い」につながるのだ。
『続日本紀』に「陸奥国、会津郡、高寺が兵火により焼失する」とだけ記される謎の事件が、時の中央政権と伊佐須美神社の軍団(伊佐須美族)による企てだとしたら、その伊佐須美族とはどのような一派なのだろう。
前田氏は、朝鮮半島に由来をもつ人々(新羅からの渡来人)だと述べるが、その由来を探るカギは、伊佐須美神社の本地仏と伝わる「双身(そうしん)歓喜天(かんきてん)」にあった。(高麗郡初代郡司・高麗若光の守護仏が歓喜天であることは前号で述べた。)

歓喜天とは、頭が「象」で身体が人間という「象頭人身」の姿だ。
単身の像もあるが、伊佐須美神社の双身歓喜天のように、二尊が抱きあう姿の像が多い。

双身歓喜天(一般的な姿)
伊佐須美神社の双身歓喜天の画像は存在しない。

それは、ヒンドゥー教における邪悪な神と十一面観世音菩薩が、和合・合体して仏法の守護神となったからとされる。
ところが、驚くべきことに伊佐須美神社の双身歓喜天の頭は、「象」ではなく「鳥」。
前田氏によるとその鳥は「カササギ」だという。カササギは、朝鮮語「カンチェギ」が語源で、朝鮮カラス、または高麗カラスとも呼ばれている。

さて、伊佐須美神社が現在地に鎮座するまでには、新潟県境の御神楽(みかぐら)岳(だけ)(金山町)、博士山(はかせやま)(柳津町)、明神ヶ岳(みょうじんがだけ)(会津美里町)を巡ったとされるが、大沼郡三島町の伝承では、御神楽岳の後には「三坂山(みさかやま)」に移ったという。
ここには千石太郎という豪族が住んでおり、伊佐須美の神たちとの間で争いになった。千石太郎は伊佐須美の神たちを打ち破るが、今度は善波(よしなみの)命(みこと)という人物が現れ、悪戦苦闘の末ついに千石を倒してしまう。善波命はその後、善波平と名付けた地に伊佐須美神社を分祀して「かささぎ大明神神社」を祀ったのだ。『三島町史』では、かささぎ大明神と伊佐須美明神は一体だとしており、1496年までは存在したという。

 ◇「昔」氏と「鵲」◇

『日本書紀』推古天皇の598年に「聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤(きしのいわ)金(かね)が二羽のカササギを持ち帰り、難波の杜で飼った。
すると枝に巣を作って卵を産んだ。」と記されている。
この時、日本列島に初めてカササギがやってきたようだ。
その難波の杜を今に伝えるのが鵲(かささぎの)森宮(もりのみや)(大阪市中央区)だが、カササギは「鵲」。「昔」に「鳥」と書く。

カササギ

古代朝鮮の新羅の王家は、朴氏から昔氏、金氏と続くが、「昔」王家は新羅4代脱解(だっかい)王(おう)に始まる。
脱解は子供の時に箱に入れられ流されてきたのだが、その箱を守るように飛んできた鳥が「鵲」なのだと朝鮮最古の史書「三国(さんごく)史記(しき)」が伝えている。
つまり「昔」氏は「鵲」に由来する。カササギは今でも韓国人にとっては吉鳥で、今もソウル市のシンボルだ。
中国語の喜鵲(シーチュエ)は、カササギの鳴き声は吉事の前触れという意味だ。
また、古代から七夕の伝承とも結び付き、1年に一度、牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)が出会う場面では、カササギが2羽で天の川に橋を架けるという。
ヨーロッパでもカササギは特別な鳥だ。
ドイツでは悪魔的な鳥で、フィンランドでは、悪魔が創造した鳥だがその後神に認められたとされる。
イギリスでは1羽で飛ぶのは凶兆、2羽で飛ぶのは吉兆だという。
これらカササギの二面性や、つがいになることで性格が変わるという伝承は、まさに双身歓喜天の姿にも重なって見える。
そして、その起源が半島や中国をも越えて、西欧にも関わるような気がしてくる。

さて、少し話しが遠回りしてしまったが、伊佐須美神社の本地仏である双身歓喜天が、新羅の王家「昔氏」の由来であるカササギを表しているならば、それは、故国を離れ日本へ渡来した人々の心の拠り所であり、同族の証しともいえる。
伊佐須美族は、会津盆地北西部「宇内青津古墳群」を警戒しながら、会津の西・南部から盆地内に移動したのだろう。
時の政権がそれを主導したとすれば、武蔵国の高麗郡や新羅郡の成り立ちと重なる。高麗郡の初代郡司・高麗若光は、歓喜天を守護仏として渡来人を束ねたように、伊佐須美族の守護仏も、全長18センチほどの木造の仏像、双身歓喜天だったのかもしれない。              (終わり)


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