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終わりを決める

道端に転がる石はもともと人間だった。時間の流れは肉体を徐々に無機質な物体へと変え、記憶も思考も意志も何もかもが固有性を失い砂漠で風に流される砂粒のようにさらさらと同質化していく。個別の記憶がいつなくなるのかは誰にもわからない。この世に人間として生まれ何百年も経過したのちに砂粒となっても、記憶の断片は残っているのかもしれないが確かめようがない。若さと美と健康な肉体と精神をできるだけ長く保つための研究に人類は莫大な投資と労力を投下し続けているが、人間が時間の経過とともに必ず老化し、やがて無機質化する流れに抗うすべは発見されていない。この世界では「死にどきを自分で決める権利」が最上位に大切にされている。砂粒になるまで生きることも一時間後に死ぬことも自分で決められる。いつ死ぬかを自己決定できることが重要であり、長く生きることも早々に死ぬことも自分の決定であれば等しく尊い。世界がこうなる前は「命は地球より重い」「命より大切なものはない」「生きていることが素晴らしい」という価値観だったようだ。
この世界でも殺人が重罪なのは相手の生命を奪ったからではない。死にどきを自分で決める権利を奪ったからだ。殺人を犯した犯罪者が課せられる刑罰は、被害者と同様決める権利のはく奪。刑務所で砂になるまで生きながらえるか死刑になるか、いずれにせよ自分で決める権利を失う。自死はよくありふれた権利の行使として日常にあふれている。事故や災害など避けられない形で死にどきを自分で決められずに命を落としてしまった者たちには、最大限の哀悼の祈りが捧げられる。
死にどきを自分で決める権利は、人生に自由をもたらす反面、自己決定の苦しさもついて回る。自己決定の苦しさから逃げたい人の需要をみたすべく、この世界でも宗教がたくさん生まれた。大別すると、できるだけ長く若さと健康を保てるよう徹底的に節制して砂粒を目指す宗派と、教祖が各人の死にどきを天の啓示によって教えてくれる宗派と、徳を積めば自分の死にどきが自分で悟れる宗派が3大勢力だ。そして、カルトコミュニティー、セラピー、占いなど多種の自己決定の苦しみサポートも存在する。

できるだけ長く健康と若さを保つことが生きる目的の人々の節制ぶりはすさまじく、食事も行動も環境も何もかもが未来に向かって健康と若さを維持するために費やされる。この宗派の人たちの生き方には迷いがない。もちろん健康に関する学説は常にアップデートされるため高い情報収集能力、それを実行し継続する強靭な自己管理能力が必要だ。ストレスをできるだけ避けることも必須で、健康と若さを維持するのに適さない行動や環境は徹底的に排除されていく。よってこの指向の人々は同種な人でかたまり排他的なコミュニティを形成し結束は強固だ。一方、死にどきを自分で決めるということが救いになっている人々にとって、好きなときに死ねるということは自由の象徴だ。つらくなったら死ねる嫌になったら死ねるということはどんな免罪符よりも強い。いずれ死ぬという結果は揺るがず享楽的に生きることで満たされている。この人々にとって避けてはとおれない老いと正面から向き合うときこそが死にどきとなるが、結局死にきれずだらだら生き続ける人も多い。

子供が生まれるとほとんどの親は砂になるまでできるだけ長く子供に生きてほしいと願う。けれど子供にとっても自分の死にどきを自分で決定する権利は重要で13歳がその権利を有する起点の年齢だ。この世界で子どもを産むという選択をしている人は、ほとんどがしかるべき時にいずれ死のうと考えている人々だ。自分の健康と若さをできる限り伸ばし最終的に老いを受け入れ砂粒になるまで生ききることをめざす人々は、子供を産み育てることを望まない。子育ては自分の持っている生きるリソースを減らすことだからだ。この世界の完全な人間は徐々に減少していて世界のいたるところに砂漠ができている。
ところが、とあるカルト教団が子供を産み育てることこそが現世の業を払い神の啓示を受けて適切な死にどきを知る手段という教義を打ち立てたところ、爆発的に信者を増やしていた。以前の世界にはあったらしい結婚という制度もないので、信者同士が救済を求めて子供を産み育てるのでこのコミュニティの人口はだんだん増えていった。

かつて多くの人々は、生き続けるのか自分で死にどきを決めるのかどっちつかずのまま、時と場合によってどちらの道を行くか揺れ動きながら生きていた。自分で決められる幸せと自分で決めることの不幸と、両方を行ったり来たり。自分は何をしたいのか自分はどう老いていくのか。自分で残り時間を設定してもいいし、設定せずにただ時間をだらだらと費やしてもいい。時間は決して止まらないから身体も精神も確実に老いていく。昔のように寿命は神のみぞ知り、病気やケガや天災や戦争などで若くして死ぬ可能性もあれば100歳前後まで生きる可能性もある、その人の寿命は事前にはわからない。死にどきは運命でありその時がくるまで生き抜くことが最善という価値観。その方が幸せだったのかもしれない。

今最も信頼しパートナーだと思っている相手は、世界がどう変わっていくのかをずっと見ていたいそうだ。ずっと生き続ける道を選ぶのだろう。自分自身のクオリティにこだわりがないのが素晴らしい。老いて身体が不自由になっても醜くなっても別に何とも思わないという。ふたりとも遺跡をめぐる旅が好きだ。
空き地がただ広がっているだけの古代の都の遺跡に立って、そこに古代の人々が存在したことを夢想できる人がパートナーでよかった。長い歴史の中で死ぬことをどうとらえるかも変遷してきたのかもしれない。この世界では死は悲しみではないことが残って生きていく人にとっても先に逝く人にとっても幸せだ。


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