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外見を褒める人

苦手なこと、心がざわざわすること、自分を縛ることを意見だしした際に、真っ先に頭に浮かんだことが外見を褒める人だった。
正確にいうと、人の外見に言及する人ってことかな。

#もぐら会 が終了してからも、なぜ自分は「外見をあーだこーだいう人」が苦手かずっと考えていた。

そもそも私自身が、髪型を変えた人をみて「素敵!似合うね」おしゃれな洋服を着ている人には「すごい!めっちゃ素敵」など感じたとおりに口にだしている。外見を褒めまくっている(笑
おかしい。

美人な人は、なんて美人なんだろうと素直に思うしスタイルがいい人には尊敬の念がわく。
10代20代の女の子に関しては、顔の造形関係なくほぼ全員可愛いなあと思う。そこに邪念はなかった。

若い頃は男子にチヤホヤされるかわいい子に対して妬み僻み羨望、自分への扱いとのあまりの差にコンプレックスはどこまでも深く、わたしもチヤホヤされてみたい!!!というのが悲願だった。
(当時若い私におっさんはみんなチヤホヤしてくれたが、そんなのは欲を何も満たしてくれなかった)

でも、自分も友人たちも等しく年齢を重ねていくにつれ、チヤホヤされたい欲は消え失せ(恋愛戦線から撤退したのが大きい)、自分の外見へのコンプレックスも解消された訳ではないがどうでもよくなり、かなり生きやすくなった。

ではなぜ????

思い当たるフシはある。

うちの子どもふたりはとても小柄だ。
下の娘の場合、同じ学年の子で娘より小さい子に出会ったことがない。
そしてふたりとも赤ちゃんの頃から食が細く、牛乳嫌いで偏食だった。

赤ちゃん・幼児時代は、成長曲線の「標準」の範囲から大きい方に外れる場合は誇らしげなぐらいなのに、小さい方に外れている場合、親はどこか不安でなぜか自分のせいでは?と自己嫌悪になる。

オトナは大きい人小さい人痩せている人太っている人、体型なんて人それぞれで標準的かどうかなんてさほど関係ない。

なのに赤ちゃん時代、幼児時代は「標準」に親が囚われる。

うちの場合は体格だったけれど、子どもの発達で悩んでいるママ友もいた。
子どもの成長はそれぞれで、早い遅いも大きい小さいもよその子と比べてもしょうがない。
育児書どおりになんかいかない。
そんなの十分にわかっているつもりだった。

料理嫌いで下手なのに自分なりにいろいろ調べて工夫してありとあらゆる方法を試しても、
うちの子がごはんをいっぱい食べるようにはならない。
そんなときにママ友から言われる、うちの子どもの小ささや食べなさについての何気ない言葉に、平然となんなら笑いにして答えていたが、心はズタズタだった。
ママ友たちに悪意は1ミリもない。
もっというと、うちの子の小ささを他人はそんなに気に留めていなかった、と今ならわかる。

だけど日々繰り広げられる
「買った服がもう着れない!」「身長が何センチ伸びた」「もうオトナと同じくらい食べる」
などの、何の悪意もない普通の会話がチクっと心に刺さる感覚。

これが心がザワザワする原因の一端だったんじゃなかろうか。

もちろん、私も他の人の心をチクっとさせる言葉をたくさん言ってきたんだ。知らないうちに。

ここまで書いてきて
「なんとなく苦手なこと」「心がざわざわすること」は自分のコンプレックスなり弱さなりと
まさしく表裏一体だなあと思わされる。
私は子どもの体格と少食が気がかりだったので、それに関連するワードに過敏に反応していた。

そして、子どもたちにとって小柄なことがコンプレックスにならないようにと強く強く願っていた。

渦中を通りすぎてみると、自分でも気にしすぎで狭い世界の中でもがいて自分で自分を溺れさせてた状態だとわかる。
完全に受けて側の問題だった。
通りすぎたから言えるのだけど!

井戸の底の方に沈んでいた感覚が、みんなの話を聞いているうちに浮上してきた結果なんだろうな。それが「苦手なこと」として思い出された気がする。
次はもう一つの嫌いなことを深掘りしてみたい。

#もぐら会
#もぐらのこぼれ話









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