見出し画像

「KANさんの想い出」に寄せて

年末年始の、少し時間の取れる期間に、自分なりの「KANさんの想い出」を書き綴ってみた。最初は、何回になるかわからなかったけれど、結果的に10回ということになった。個人的な思い出話ばかりだが、ある程度まとまって書くことができて、自己満足している。

11月にKANさんが亡くなってから、これまで聴いたことのなかったファーストアルバム『テレビの中に』と『TOKYOMAN』以降の作品を、少しずつ 聴き始めている。そして、録音したラジオを聴き返してみたり。

今、聴いているのはフランスから帰国して以降の作品が中心。私も大人になって、KANさんとの年齢的な価値観のギャップが埋まったころからの作品だ。こうしてこの時期からの楽曲を聴いてみると、大きく2種類に分かれるような気がしている。一つ目は、まじめな、人生観や世界観を歌ったもの。二つ目は、遊び心で作ったもの。どちらも恋に絡んだ曲が多いが、前者は、非常に共感できる内容が多く、後者はKANさん独特の感性によるもので、ある意味、共感というより、KANさんらしさが全開になっている。

KANさんは、20代後半で「愛は勝つ」の国民的大ヒットがあって、それ以降、よくも悪くも、音楽活動や生活が余裕あるものになったのではないかと思う。つまり、商業的なしがらみをある程度自分の力でコントロールしながら、音楽活動をすることができるようになった。もちろん、フランスに留学したことで、その間の新たな収入はほぼないわけだから、金銭的にすごく余裕があったわけではないかもしれないけれど、ベースとなる経済的安定性というのはあったと思う。そういう中で、音楽活動はチャレンジングできる環境にあり、いろいろな試みをしてきたわけだが、生活面では無理に大ヒット曲を作ってお金をがっぽがっぽ得よう、という思いはそう強くなかったように思われる。そのためか、KANさんの歌詞には、人生を達観したような内容が多いように感じる。そういう意味では、いつ死んでもいい、という準備がなされてきたような気がしてならない。

2022年の秋に、原因不明の腹痛があり、翌2023年の早い段階で、メッケル憩室癌が判明。3月7日にBAND LIVE TOUR『25歳』の昨年12月の東京公演のコロナ罹患による振替公演をZepp DiverCity Tokyoで開催。(これが生前最後のライブとなる。Perfumeの3人や根本要さんら多くの仲間が参戦。)3月18日に癌を公表。そして、11月に死去。癌が判明してから、1年足らずでこの世を去ってしまった。いま、考えてみると、KANさんは、癌が判明した段階で、医師からはかなり厳しい状況であることを告げられていたのだろう。そして、おそらく、3月の公表後から5月にかけて、12週連続でラジオに出られなかった時期に入院し、大きな手術を受けた。その結果、病巣は多くの臓器に転移しており、回復は極めて難しいという結論になったと想像できる。それでも、ラジオを続け、もう一度生きているうちに行きたかったフランスに行き、最後まで自分らしく生きようとした。最後の「ロックボンソワ」でも、新しいコーナーを始めるほど、いつも通り、意欲的に生きようとしていた。それでも、これまでフルコーラスかけることが多かった楽曲を、早い段階で切り上げ、「途中まででごめんなさい。今日はたくさんお伝えしたいことがあるので。」と、リスナーやファンに、音楽家として、ラジオパーソナリティとしてのKANを少しでもたくさん伝えたかった、焦りのようなものが見えた。いつも通りを努めたいと思いつつ、KANさんの、人間らしい葛藤がここに出ているように感じる。いくら人生を達観していようとも、自分の死が見え隠れする中で、私もKANさんのように、これまでの平常心を保って、いつも通りの生活や、仕事ができるだろうか。それを考えると、ようやく、私の目にも涙が浮かんできた。

公表された時点で、かなり厳しい戦いが予想されていて、3月下旬~5月頃の入院と手術でほぼ戦いは決していた。もっと早く見つかっていれば…と思わずにはいられないが、過ぎたことを考えても仕方ない。これからは、KANさんの曲を聴き、新たな発見をすることを楽しみにしていくことが、KANさんに報いることと考える。折に触れて、新たな発見をこの場で書ければと思う。今後は、KANさんの話ばかり書く、ということはないかもしれないし、毎日書く、ということもできないと思うけれど、引き続き、文章を書くということができればと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?