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KANさんの想い出~⑤ふとKANさんを思い出す

昨晩、STVラジオで「KANのロックボンソワ 追悼番組 〜よければ一緒に〜」が放送された。番組を聴きながら、私はKANさんの番組の最初期(日曜時代のアタヤン)と、最後(ロックボンソワのラスト一年)を知っているだけで、間の30年以上は何にも知らないな…と改めて、REGRETSしているところ…

さて、今回はKANさんから少し話がそれてしまいますが、どうしてKANさんを思い出したか、という話。

私が、KANさんの曲を聴かなくなってから、30年ほどが過ぎた。
その間、私もそれなりに恋愛をしたし、素敵な伴侶を得て、結婚をして、子どもにも恵まれた。2011年の東日本大震災では、私たち家族は大きな被災はしなかったが、つながりのある人が何人も津波や震災後の心労で亡くなり、あるいは生きていても大切な人を亡くしてしまった人がたくさんいた。その当時、仕事柄、避難している人たちや、被災した役場の人たち、ボランティアの人たちと接する機会が多かった。怒り出す人、泣き出す人、大丈夫と言いながら不安そうな顔を浮かべる人…自分ができることは、話を聞いて、なるべく多く顔を出すことくらいだった。
そんなとき、思い出したのは、中高生のころ聴いていたラジオだった。

高校時代、KANさんのアタックヤングを聴かなくなってから、次第にラジオからは離れていったけれど、細々と聴いていた番組がある。もともとはアイドルで、とんねるずと同じ事務所にいて積極的に売り込みはしていたけれど、結局、アイドルとしてはメジャーと言えるまでは売れず、90年代にガールズポップ的な枠組みに転向した歌手・真璃子がやっていた「真璃子のオールナイトニッポン」という番組。

「KANさんのアタックヤング」の録音は一本も残っていなかったけれど、「真璃子のオールナイトニッポン」の録音は、最終回も含めて3本残っていた。当時、録音に使っていたのはTDKのAE-120という120分のカセットテープ。当時のカセットテープは、高校生のお小遣いをそれなりにひっ迫するくらいのお値段。深夜で起きていられない時間の深夜ラジオを録音するために使っていた。高校2年生になった私は、KANさんが、Polandの形容詞形がわからず受験に悩んだのと同様、今度は大学受験の準備をしなければならなくなっており、勉強がはかどらず悩んでいた。こうなると、もはや深夜ラジオに求めるのは笑いでもなければ、エロでもなく、自分の知らないゴシップネタを仕入れるためでもなく、唯一「癒し」だけだった。水曜深夜3時からやっていた「真璃子のオールナイトニッポン」は、夜遅くまでの勉強を終えて、あるいは寝落ちしてふと目が覚めた時にラジオから聴こえていた番組。ラジオの向こうから聴こえてくるのは、信じられないくらい、澄んだきれいな声。内容がどうとか、というのではなく、その声を聴きたくて、3時まで起きて、カセットテープに雑音混じりの放送を録音していた。けれど、その番組も、やがて最終回を迎えた。そのあとも深夜ラジオは細々と聴いていたが、「KANさんのアタックヤング」ほど自分の波長に合った番組はなかったし、「真璃子のオールナイトニッポン」ほど癒される番組もなかった。KANさんは引き続きアタヤンをやってはいたが、この頃になるとラジオ自体を聴かなくなっていて、遠くのSTVラジオを雑音の中から拾ってまで聴く熱意はなくなっていた。そんなわけで、かつてはアタヤンも録音はしていたけれど、上書きに上書きを繰り返した結果、深夜ラジオリスナー最末期に聴いていた「真璃子のオールナイトニッポン」を録音したカセットテープだけが、押し入れの段ボールの中で眠る、という結果になった。

震災後、「真璃子のオールナイトニッポン」のカセットテープを探し出した私は、パソコンに音声データとして取り込んだ。被災地の人たちが避難している福島県郡山市に通う2時間、その番組の録音を繰り返し聴いて、震災ですさんだ自分の心を癒していた。ただ、残念なことに真璃子はオールナイトニッポンが終わってから3年ほどで芸能界を引退、そのときはすでに過去の人になっていた。

震災から、さらに約10年経った2022年、久しぶりに「真璃子」の名前をGoogle検索してみた・・・なんと、数年前に真璃子は歌手活動を再開していた。子育てを終えたあと、テレホンアポインターや飲食店などの仕事をしていたが、「やっぱり私には歌うことしかできない」と決意して、地元福岡で歌手として復帰、その後ラジオ番組のパーソナリティの仕事も得て、クラウドファンディングでCDも出していた。引退と結婚を機に、故郷である福岡に帰った真璃子だが、30年を経ても東京での歌手生活のつながりは残っていて、在京のラジオ局・ニッポン放送にゲスト出演することもあり、その上京ついでに新橋の小さなバーで、歌っていた。中高生時代に、震災後に癒しをもらっていた彼女の歌声・・・かつてリスナーだったことを本人に伝えることもできた。小さなバーでその歌声を聴いているうちに、もう一つの大切な番組を思い出した。KANさんの番組は、どうなったんだろう?

調べてみると、「KANさんのアタックヤング」から、番組名が変わったり、中断をしつつも、KANさんの番組は30年以上続いていた。その番組の名は「KANのロックボンソワ」。この長い間、KANさんの番組が続いていたことは奇跡だった。いや、奇跡ではないかもしれない。KANさんが、ラジオというものをいかに大切にしていたか、そして、STVラジオというラジオ局がいかにKANさんの想いに応えていたか、ということを考えれば、必然だったのかもしれない。

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