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KANさんに見る男のムジュン

KANさんがいなくなってから、KANさんのことを考えることが多くなった。以前にも書いたが、私がはじめて自分のお小遣いで買ったのがKANさんの「東京ライフ」で、それから「愛は勝つ」が大ヒットして、アルバム「TOKYO MAN」の頃には、当時の若かった自分の感受性とKANさんのその先を行く感性が乖離して、長い間ファンから離れていた。戻ってきたのは、KANさんがいなくなるちょうど1年前、STVラジオの「KANのロックボンソワ」という番組だった。

どうして、こんな長い間、具体的には1992年頃から2022年の秋頃まで、ざっと約30年間、KANさんを聴いていなかったのか?また、2022年の10月に「KANのロックボンソワ」を聴き始めたにもかかわらず、ライブはおろか、CDの一枚も買わなかったのか、オンラインの1曲も買わなかったのか、ラジオにメッセージの一通も出さなかったのか、自分でもどうしてなんだろう、と思う日々が続いた。それは、青春のスタート地点に寄り添ってくれた曲を歌ってくれた人の最期に、偶然立ち会えるチャンスをたぐりよせる奇跡があったのに、なぜ、その最期に、もっと近づこうとしなかったのか、という疑問だ。ただ、本当に近づこうとは思っていなかったので、後悔していないというのは噓になるけれど、仕方なかった、という諦念からか、気分的に割り切れてはいるのだ。でも、割り切れていると言ってはいるけれど、なぜなんだろう?と、あれからずっとすっきりしない思いが続いていた。うぅ、やはり割り切れていないのか・・・

さて、noteにKANさんのことを書くようになってから、同じくnoteにKANさんのことを書いている文章に触れたり、私の拙い文章にもコメントを寄せてくれる人がいたりで、それは、本当にうれしい出来事だと思っている。30年もの長いブランクの間、KANさんのライブに行った日のことを昨日のことのように書いている人、KANさんの歌をずっと聴いてきて生きる糧になったよと記す人、KANさんに出会えてよかったことを綴る人、それらの文章に触れることによって、私の知らないKANさんに触れることができるのは、本当に嬉しい。ネット上なので、その書き手が男性なのか女性なのかは、あまり意識していなかったのだが、感覚的に、圧倒的に女性が多いような気がする。

私は男なので、女性から見たKANさん像を見聞きし、そう見えるのか!と驚いてみたり、男としてはKANさんのココはどうなんだろう?と思うことについてはどう考えているんだろう?と思ったり。

KANさんに対して、自分として納得いかないところは、その歌詞やSNS、著書の中で書いている通り、美人が好きすぎるコト。彼女や奥さんがいるときでも、ちょっと浮気性すぎませんか?というところだ(苦笑)

私にとっては、歌手であり、ラジオパーソナリティであり、芸能人であるKANさん。なので、美人好きとか、浮気性とかいうのは、どうでもいいこと、であるはずだ。しかも、私は男なので、好かれたり好かれなかったりする人(女性)でもないし、浮気をされるほうでもない。

この数カ月で気づいたことは、どうでもいいはずなのだが、実はどうでもよくなかった、ということだ。私は、世代も一回り違うし、歌手であり、ラジオパーソナリティであり、芸能人であるKANさんとは住む世界も違う。だけど、私は男として本能的に、KANさんを男としてのライバルと勝手に思い込んでいたフシがあるんじゃないか?

女性を容姿だけで判断するなんてケシカラン(実際は、KANさんは容姿だけじゃなくて性格も重視する💦)、奥さんがいるのに客室乗務員やスーパーの店員さんにまで目を付けるなんて!みたいなところが、たぶん、私は本能的に許せなかったっぽい(笑)

とはいえ、我が身を振り返ってみると、やっぱり彼女がいてもカワイイ子がいれば気になるし、奥さんがいても、きれいな人を見れば声をかけたいな、なんて思うこともあったり。でも、当時はそんな自分に気づいていなかった。

結局、自分もKANさんと変わらないから、よくわからないライバル心を持っていても仕方ないな、と思ったかどうかは覚えていないけれど、久しぶりにKANさんのラジオを聴き始めたのが2022年の10月。そして、KANさんが亡くなってから、Regretsばかりというわけだ。

このnoteにオチをつけるのならば、いろいろ自分の内面のことを書いてみたけれど、やっぱり、ひねくれずに自分に素直な行動をとったほうがいい、ということ。あれ、なんにもオチじゃなくて、まともなことを言って締めくくることになってますが、まあ、そういうことです💦



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