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期待しないことと、信頼すること

noteを始めたものの、しばらく投稿ができていなかった。
ネタにするようなことはあったのだけれども、落ち着いてPCに向かう時間を取れなかった。

1か月間のエチオピア出張を明日で終え、帰路につく。
エチオピアでの出来事を振り返ってみようと思う。

いつものことながら、ここでは予想外のことが多々発生する。
そのため、身に付いたものは「動じない心」である。
滞在していたホテルから突然追い出されたり、予約していたはずのホテルが取れていなかったり、ガソリンスタンドで異常なほどの行列ができ、給油するまでに2時間かかったり、雨で道がぬかるんで目的地まで行けなかったり、借りている車の窓が外れたり、ドアノブが取れたり、エレベーターが止まったり・・・
毎日何かしらの「イベント」がある。「アクシデントはアクセント」と誰かが言っていたけども、ここまでアクシデントが多いと何が「通常」で何を「普通」と呼ぶのかが分からなくなってくる。。

「普通こうする、こうである」という概念は捨てた方が良い。あらゆることに期待せず、「そういうこともあるよね~」と流せるマインドが必要だ。もちろんそれを面白いと笑うこともあるが、時にはストレスに感じる出来事もある。

だから、物事に関しては「期待しない」ということがある意味重要になってくる、という風に思っているが、「人」に対しては違う。

これまで、現地での大きな活動の1つとして気候変動や営農上の様々なリスクに対応するために適した農業技術を普及展開するということをやってきた。ずっと現地にいる訳ではないので、その全てのプロセスを間近で確認することはできない。しかし、出張中いくつかの現場を訪れ、活動の中心となる人たちの実行力や主体性というものに感動することが幾度かあった。我々がプロジェクトとして、限られた対象地域で点としての活動を促し、上手くいくのか?点的な活動が果たして効果があるのか?そして、現地の人たちが理解して熱意と主体性を持って取り組んでくれうのか?という疑問は自分の中に常にあった。

教育理論の中に「人というのは扱われたようになる」という理論があるそうだ。詳しくは分からないが、以前コーチングを受けた人から教わった言葉だ。"その人を「どう扱うか」それによって、その人はそういう風に行動するようになる。”という考え方だ。
「やってくれる、続けてくれる」と思って、彼らと接すること、サポートすること。根拠がなくても「信頼する」ことが一番重要。
どんな時にでも言えることだが、誰かが自分を信頼してくれたら、自然と「責任」を感じるだろう。そして期待を裏切らないようにしたい、と思うだろう。言葉が通じなくとも、完全なコミュニケーションができなくとも、それは全世界に共通することだ。

だから自分は、物事に対しては期待することを放棄し、人に対しては信頼する。という軸をこれからも大切にしていきたいと思っている。

簡単な話を大袈裟に書いてしまったのかもしれない。
でも、言葉にすることで、頭の中にあることが整理できた。

さて、明日の今頃は日本にいるかな。おやすみなさい。

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