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選ばれなかったポケモントレーナーたちへ

投げた コインだって 
必ず 表か 裏の どちらかに なるわけじゃない
落ちてこないことだって あるだろ

『ポケットモンスター ブラック・ホワイト』より


 Orangestar の新曲『Encounter』を聴いて衝撃を受け、衝動的にこの記事を書いている。

 伝説のポケモン・ルギアがモチーフになっているこの楽曲は、僕の思う「伝説のポケモン」に遭遇する瞬間を、そのまま音楽に変換したような作品だった。

 あえて題材にするのを避けてきたが、僕はポケモンが好きだ。ポケモンと共に生きてきたと言っても過言ではない。親からは「そんなにポケモンアニメばっかり見ていたらピカチュウになるよ」と言われていたぐらいだ(脅しとしての効果はいまひとつだったが)。

 ポケモンの美点は枚挙にいとまがないが、あえて一つを挙げるなら「世界観」だ。今や日本を代表するIPになったポケモンというコンテンツは、約28年の歳月の中で、「ポケモンが存在する世界」の描写をコツコツと積み上げてきた。ゲームはもちろんのこと、アニメや漫画、実写映画、TCG、音楽や小説に至るまで総動員して掘り下げられてきたポケモンの世界は、本当にそこにあると錯覚しそうなほどにリアルな存在になっている。そして僕たちは、ゲーム『ポケットモンスター』シリーズをプレイすることで、その世界に主人公として入り込むことができる。この喜びは実際にゲームをプレイする人にしか味わえないだろう。

 ところで、ポケモン世界では、主人公は極めて異質な存在である。シリーズ作品のほとんどで、主人公は驚異的な強さをもってライバルを圧倒し、チャンピオンを打ち破り、悪の組織の企みを阻止し、そして伝説のポケモンに認められる。彼/彼女はまさしく天才トレーナーで、世界を救うヒーローで、どうしようもないほどに主人公なのだ。現実世界の僕がそうではないのとは対照的に、だ。だから僕は、自分をゲームの主人公にそのまま重ねることはできない。それよりもむしろ、道端のポケモンバトルで主人公に負かされるトレーナーたちに、自身の面影を見出す。

 ポケモンの世界観は精密で強固だ。それはつまり、その世界に暮らす無数の「一般人」をイメージできるということである。僕はそこにあらゆる普通の人生を見る。普通のポケモンと共に暮らし、普通に負けて挫折して、普通に生きている人々のことを考える。僕が総理大臣になろうとしないのと同じように、彼らは伝説のポケモンを捕まえようなんて考えることすらしないだろう。彼らは僕と同じ、圧倒的な才能と努力と運命力を兼ね備えた何者かに打ちのめされるモブトレーナーだ。

 そんな彼らでも、伝説のポケモンに会いたいと願うことはあるだろう。ジムバッジを8個集めることすらできないとしても、天空を裂くレックウザを、水面を駆けるスイクンを、一度でいいから見てみたいと祈る自由は彼らにもあるはずだ。主人公になれない自分たちにも、生きていてよかったと思えるような特別な瞬間があるかもしれないと、ぼんやり信じながら暮らす人生は地味だけれども希望に満ちていると思う。そんな何の変哲もない一生においては、きっと勝ち負けも、コインの裏表も、本質的には些細な問題なのだろう。

 普通に生きる人々のうちの何人かは、いつか伝説のポケモンに出会うのかもしれない。きっとそれは言葉を発する間もないような一瞬の出来事で、そんなことで彼らの人生は変わらないだろうけれど、その夢のような記憶は彼らの生活を鮮やかに彩るだろう。

 現実世界に生きる僕も、そんな奇跡の訪れを祈っている。曇り空を晴らす一陣の風のようなドラマチックな何かを期待している。しかし一方で、もしも奇跡が訪れないまま最後まで生きることになったとしても、それはそれで悪くないのかもしれない。まさにそれは「穏やかな夢みたい」な人生に違いないからだ。いずれにせよ、僕たちにできるのは、ただ旅を続けることだけだ。その傍らにずっとポケモンという不思議な生き物の世界があることが、僕にとってのいちばんの望みである。