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Mossy chozubachi

Mochian Okamoto
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手水鉢
    「つげ義春初期傑作短編集」第3巻解説(講談社) 2003.6.23より 

 つげ義春にあこがれて、つげ春乱という名で、歌を発表したことがある。1969年、「堕天使ロック」「花が咲いて」「君をさらって」がそうだった。ペンネームを使ったのは、版権の事情があってのことだったが、それにしても、今思うと、恥ずかしくもあり、図々しくもあった。
 その後、僕は音楽をやめ、20数年、本屋を営んでいたわけだが、10年ほど前から、再び歌うようになり、今はもう、そのことはいっさいなかったかのように、本名で通している。

 つげさんの漫画との出合いは、18か20歳の頃だった。「沼」「チーコ」「海辺の叙景」「紅い花」「もっきり屋の少女」「やなぎ屋主人」……。毎月『ガロ』が楽しみだった。僕は新宿風月堂に通い、劇団とバンドに夢中な時期だった。
 今思うと、1972年『夜行』に載った「夢の散歩」「夏のおもいで」あたりから、いっそう大ファンになった気がする。
  「懐かしいひと」「義男の青春」「必殺するめ固め」「無能の人」などを読んだのは、もう本屋をやっていた時期だ。よく作家は、処女作を超えられないというような言い方をされるが、つげさんは、新作であればあるほど、どんどん素晴らしくなって行く。「別離」など、僕は一番好きだ。
 作品は決して明るくないけれど、その暗さの中に、ほんの少しユーモアがあり、なおかつ、ちょっとエロチックで。そこが僕は好きだ。
 文章もいい。「蒸発旅日記」などは、短篇小説のようだ。「ひどいブスだったら困るけど、少しくらいなら我慢しよう」というセリフが、なぜか、好きだ。
 しかし、あまり惚れ込むのは、まずい。人と接するのがひどく苦痛の時期が僕もあり、「いっそ犯罪者になってしまったほうが、もはや自分は正常な人間とはみられないから、かえって異常者として大手を振って生きていけるような気持ちになっていた」(「犯罪・空腹・宗教」)というような文章を読むと、本当に自分もそうなってしまいそうな危険を感じた。

 本屋のブックカバーに絵を描いてもらおうと、思い切ってつげさんに電話をしたことがある。もちろん、ドキドキしながらだ。絶対、断られるだろうと思ったから、初めから代案を考えていた。
 「あのー、ブックカバーに絵を描いていただきたいのですが」「古本屋さんですか?」「いえ、ふつうの新刊本屋なんです」「……ぼくはデザイン的なことはしませんから」「いえ、あの、デザインではなく、何か一枚絵を描いていただけたら」「いや、それは無理です」「そうですか。では、『紅い花』の一部分を使わせてもらうというのはどうでしょうか?」「あっ、それならいいですよ。ぼくは、自分の作品がどう扱われようとかまいませんから」という返事だった。
 どう扱われようとかまわない、という考え方がすごかった。作品を切り取ろうが、どんな解釈をされようが、どのように映像化されようが、もとのつげ作品が壊れるわけがない。ビートルズの音楽と同じである。誰がカバーをしても、ビートルズを超えられない。揺るがない。そういう力を持っている。
 「紅い花」のブックカバーは、「のうキクチサヨコ」「うん」「眠れや……」の最後の2コマを左右に配置した、いい感じのものであった。しかし、約一年間使用しただけで止めてしまった。いくら、承諾を得たからといっても、やはり、いけないことをしているような気がしたからだ。

 にも関わらず、僕はまた、お願いした。今度は、『ぼくは本屋のおやじさん』(1982年)という本を晶文社から出す時、表紙の絵を奥様の藤原マキさんにお願いした。マキさんに「もしも、マキさんが本屋さんをやったらというイメージで描いていただけると嬉しいのですが」と話した。
 本屋の奥の部屋で、丸いちゃぶ台のお皿の上にある魚の骨を猫が手を伸ばして取ろうといる、それを柱にもたれながら僕が微笑んで見ている絵だ。
 すっかり気にいってしまったので、今度は、本屋のカバー、雑誌袋、しおりもマキさんにお願いした。これらも素晴らしかった。だるまストーブのある小学校の教室で居眠りしている女の子。たぶん、マキさんの少女時代なのだろう。こたつの中でおかっぱ頭の女の子がうとうとしている。外は雪が降っている。しおりはカラーで、お人形さんとか、柱時計とか、5点描いてもらった。1995年に閉店するまで、ずうっと使わせてもらった。
 まだ、終っていない。次は『恥ずかしい僕の人生』(1997年)というCDジャケットに、つげさんの絵を使わせてもらった。おまわりさんに呼び止められそうなあの不審な男が後ろ姿で自転車を引いている絵だ。歌詞カードにも、気に入っている漫画のワンシーンを9点使わせてもらった。たとえば、「海辺の叙景」の「いい感じよ」とか、「探石行」の中の主人公の背中にもみじがパラパラと落ちてくる場面だ。

 ファンは勝手なもので、正直、僕はつげさんの貸本時代の漫画に、さほど愛着がない。もちろん、マニアの方にとっては、単行本未収録作品は魅力的だろうし、(縁起でもないけれど)たとえば死後、未発表のノートや書簡や日記まで望まれるだろうが、僕はたぶん興味がない。それより、今のつげさんの作品を見たい。それとも、つげさんは、もう、すべてを出し切ってしまったのだろうか。
 今、つげさんは何をしているのだろう。何を考えているのだろうか。いや、実生活を知りたいのではない。ただ、新作を発表してくれたらと思う。僕はつげさんの描く女性が好きだ。前髪をきちんと揃えた女の子、ちょっと肉感的な女性。好みが同じだ。すごい恋をして、ひどい失恋をして、また作品が生まれたらいいなと思う。もしくは、目に見えない、心や魂の問題を絵にしてくれたらなーと、つげ春乱は密かに思い続けている。

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