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細胞単位で愛してやるぜ宣言

不用品を捨て、台所の油汚れを落とし、ぞうきんで床を磨きながら、1年間私を守ってくれたこの小さな部屋に感謝をする。

とても長くて個人的な話だけど、自分への宣言として、年末の勢いに任せて書くことにした。


私はガン患者になった

ちょうど一年前、私はガン患者になった。
一時期は身動きすら取れなかった私にとって、この小さな部屋は世界の全てであり、守ってくれる場所だった。

右胸にしこりを発見したのが2020年の12月初旬。病院に行くと乳がんのステージ2Bとの告知を受けた。
それまで大病にかかったこともなく、ガン家系でもない私にとって、その告知はあまりにも現実離れしていた。毎日泣き通し、過去の自分の何が悪かったのか、どの罪を償えと言われているのかを考えつづけた。

2人に1人がガンになる、そして誰しもがいつかは死ぬ。でも当時36歳の私の周りには同年代のガン仲間はいなかった。数ヶ月前の健康診断では何の問題もなかったのに、突然私はガン患者になったのだ。何の自覚症状もないのに。それまでの生活も、何となく描いていた未来もリセットせざるおえなくなった。5年後の生存率が何パーセント上がるとか、生きたいか死にたいのかの選択というより、突然乗せられたベルトコンベアーで見ず知らずの場所に猛スピードで運ばれていくような感じだった。

目まぐるしく迫る副作用

告知を受けてからは、治療開始に向け怒涛の検査の日々。仕事とプライベートの調整をはじめ、一人暮らしで金銭面の不安もあったので使えそうな制度を調べ、できるだけ信憑性のある情報をかき集めた。今思うと、こうして慌ただしく準備できたことが、現実を冷静に受け止める時間になったと思う。そして告知から約1ヶ月後、2021年早々には入院、抗がん剤治療がはじまった。

予想はしていたけど、副作用は私をどんどんいじめた。ドラマなどで持っていたガン患者のイメージは髪の毛が抜け、トイレで吐き続け、ガリガリに痩せているというもの。でも実際は違った。幸いなことに私の場合は抗がん剤がかなり効果を発揮してくれた。でも副作用もきつかった。

髪の毛はやっぱり抜けた。髪の毛だけでなく全身の毛が抜けた。鼻毛も抜けて、ちょっと暖かいものを食べるだけで鼻水がツーっと流れてくる。爪も剥がれたし、目もダメージを受けたのか、外に出ると眩しくてたまらなかった。1週間で10kg太るほど浮腫んで、5分歩くだけで息切れと動悸。おぞましい数の幽霊に引きずられているように足は重く、ゆっくりと休みながらしか歩けなくなった。抵抗力もかなり下がって、コンビニにいくのですらスリル満点だった。世界がぐるぐると回る目眩のような吐き気、倦怠感はベッドから動くことすら困難にした。暗い部屋で動くこともできず、本を読むこと、映画を見るのもしんどくて、ずっとYouTubeで食べ物や旅の映像を流していた。海の底で沈んでるかのように、ただ副作用が通り過ぎるのを眺めているしかなかった。誰かのお世話になることばかりが増えて、何も産み出せない自分に価値がないような気がしてたまらなかった。自分よりもっと苦しい人がいると分かっていても、苦しいものは苦しかった。このまま気が狂って、自意識がなくなり、気がついたら自殺してしまってるんじゃないかと恐怖を感じた。

小さい世界から見えたもの

そんな中、私の世界はこの小さな部屋だった。それまで比較的忙しい方だったし、移動も多かった私の世界は物理的にとっても小さくなった。でもその小さな世界は私に様々なことを教えてくれた。


不治の病に冒された正岡子規は『病牀六尺』でこう書いている。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。

正岡子規『病牀六尺』

不治の病とはほど遠く、治療も順調な私とはいえ、病人になったからこそ見えたこと、気づいたことはたくさんあった。

車椅子で夕日を眺めているお爺さんに思い切って話かけたら逆にパワーをもらったり、入院中に隣のベットだった人はガンが10年後再発、理解がない職場と家族に苦しんでいた。私よりもっと苦しい病気で、生野菜ですら食べれない人、動くこともできない人の話も聞いた。それまでゆっくりと話す機会も少なくなっていた家族に甘え、全力で支えてもらった。苦しい時に背中を撫でてくれた母の手は、西洋医学だけでは届かなかった安らぎを与えてくれた。妹が入れてくれたハーブティーで、不安定だった精神が落ち着いた。友人がくれた打倒ガン達磨は勇気をくれた。副作用が落ち着き、久しぶりに外に出れた時は、頬にあたる風に感極まって歩きながら大泣きした。お気に入りの散歩コースも見つけた。ガンにならなければ見過ごしていた本や映画、アートにも出会えた。断ち切れなかった過去とも半ば強制的に離れることができた。一度は試したかった坊主頭にもなれた。

綺麗事では終わらせない

こうしてガンになったから得ることができたことを「キャンサーギフト」というらしい。だけど、少なくとも、現在治療中の私にとっては、そんな美しい物語で終わってはいない。そしてそんな綺麗事だけでまとめられてたまるか、というある意味「勿体無い精神」のようなものが湧き上がってくる。

私の治療はまだ続いていて、現在も3週間に一度抗がん剤を投与しながら生活している。一番苦しかった時期に比べると副作用はだいぶ軽減したものの、今でもベッドから動けず、水を飲むことすらできない時もある。でも治療は順調だし私は元気だ、生きてる。

今の治療がひと段落しても、再発することもあるかもしれない。再発すると生存率はもっと下がるだろう。より死が近づく。悪い予想は私にねっとりと迫り、時々動けないほどの恐怖に襲われる。でも私の細胞は、私の心とは別に、ただただ生きようとしている。

嫌だといっても愛してやるぜ

抗がん剤の間が数週間空いた時、髪の毛が数ミリ生えた。嬉しくて何度も鏡で見て、もしかしたらこのまま生えてくれるかもと期待した。でも次の抗がん剤が始まると、数ミリの髪の毛は無惨にもハラハラと抜け落ちてしまった。

治療が苦しくて生きている実感がない私の心に反して、私の髪の毛は、細胞は、必死に生きようとしてくれていた。抜け落ちた髪を見ながら、これまでの人生、私は自分のことを可愛がってあげれてなかったと気づいた。もっと可愛がってあげなければと痛いほど感じた。

だからこそ、私は、私自身を細胞単位で愛してやろうと思う。心がどれだけ嫌だといっても愛してやると宣言する。自分が嬉しいこと、楽しいこと、やりたいことを力まずにワガママに選んでいく。

2022年も私、よろしく

1年間ガン細胞でもないのに、いじめられ続けた私の細胞。それでも生きようとしてくれた私の細胞。よく頑張ってくれた、本当にありがとう。2022年はもっと可愛がってやるからね。来年もよろしく。

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