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おかえりなさいの匂い

行ってきますと言うよりも、おかえりなさいと言うことの方が好きだ。小学生の頃、門限は夕方五時と決まっていた。友達と遊んで遊んで遊び尽くした後、いつも風の匂いを嗅ぎながら家に帰った。子どもの頃は考えたこともなかったけれどわたしの地元はけっこうな田舎らしく、風の匂いのベースにはいつも土の湿った匂いが感じられた。土の匂いが一番濃くなるのが農道。その農道を抜けて、友達と手を振って別れると、段々と見慣れた家々が近づいてくる。するとどこからとも無く、おかえりなさいの匂いがしてくる。斜め向かいの農家さんところは焼き魚、子どもの多いあの家はカレーだろうか。トントントン、と忙しない包丁の音がまだ鳴り響いている家もある。みんなが自分や誰かを思っておかえりなさいの準備をするあの時間のあの空気が、わたしはとても好きだった。

あれから二十年ほど経ち、結婚をして、わたしも自分の家族ができた。わたしは今夫と二人で暮らしている。夫は高校と大学で授業を掛け持ちしていて、平日はなにかと忙しい。特に試験前や成績処理の期間などは、帰りの遅い日が増える。そんな日はどんなおかえりなさいをしようかと、いつもより真剣に献立を考える。食べたいものというよりもどんなものを用意したら夫は喜ぶかということを、つい最優先にして考えてしまう。漫画やアニメならジャーン!と効果音がつくような。そう、ちびまる子ちゃんの父ヒロシでさえ おっ美味そうだなこりゃと言ってしまいそうな献立が理想なのだ。皆さん知っていますか?ヒロシはたまにしか献立を褒めません!しかし生活においてあまり理想は高すぎない方が身のためなので、昨日のおかずとかぶらなければほぼ合格と思うようにしている。汁物、サラダ、そして副菜、メインのおかずの順に作り始める。私の場合使うお皿を机に並べてから考えると、不思議と献立が決まりやすい。なんやかんやと作り終えたら大体一時間くらい経っていて、そのくらいになると夫から もうすぐ着くで のメッセージが届く。了解!きーつけて帰りや!と返事をすると同時に、わたしはまた忙しなく動き始める。おかえりなさいのラストスパートだ。

夕飯作り以外に残ったおかえりなさいの準備は、あと三つだ。一つ目、まず玄関の電気をつける。真っ暗な家より、灯りがある家に帰るときっとホッとするだろうから。そして二つ目。換気扇を回し、メインのおかずに弱火で火を入れ始める。ここでポイントなのは、必ず換気扇を回すこと。たまに、ほれほれ!良い匂いだろう?と言わんばかりに鍋ごと換気扇に近付けて匂いを吸い込んでもらったりもする。ふざけて見えるかもしれないけれど、わたしとしては大真面目だ。そうすれば夫が帰る頃には、わたしの大好きなおかえりなさいの匂いが家の前に漂ってくれるからだ。ご飯のいい匂いを辿れば我が家に着いていたというような、嗅覚ヘンゼルとグレーテルが理想なのである。そうこうしているうちに夫が帰ってきた。「ただいま。外までめっちゃええ匂いしてるわ!」予想通りの言葉に、思わず口角が上がってしまう。最後の三つ目は、ただいまの声が小さくても大きくても大声でおかえりと返すこと。「おかえり!ほなごはんにしよか〜」これからも、おかえりなさいの日々はつづく。

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