見出し画像

サマセット・モーム『サミング・アップ』人間

「サミング・アップ」とは「要約」という意味。

サマセット・モームは人生を振り返って、自分の人生の要約を書き記した。

ちょうどこのnoteに私たちが日々の思いを書くように。

自分の落ち度が
他人の落ち度よりも
ずっと許しやすいように思えるというのは、
ちょっと見ると奇妙である。

その理由を考えてみると、
自分がまずいことをした場合は、
そのときの事情など全てを知っているものだから、
他人に許せぬことでも、
どうにか大目に見られるということであろう。

それで、
自分の欠点からは目を逸らし、
何か都合の悪い出来事のために
欠点に注目しなくてはならないときでも、
苦もなく赦してしまうのである。

自分の落ち度の場合には

自分でその事情を理解できているために

他人の落ち度よりも

自分を許しやすいという。

おそらくそうするのは適切なことであろう。
というのも、
欠点といえどもそれは自分の一部であり、
人は
自分の中にある良い面も悪い面も合わせて
受け入れるべきだからだ。

けれども
人は
他人を判断する段になると、
判断の基準となるものは
本当の自分の姿ではなく、
自分のついて描いた理想像である。

理想像を描くとき、
人は
虚栄心を傷つけるものとか、
世間に知られたら信用を落とすものとか、
そういうものを除外しているのである。

些細な例を挙げよう。

誰かが嘘をついているのを見つけようものなら、
人はさも軽蔑したような態度を取る。
しかし、
一度もうそをついたことがないと言いうる人だって
一体どこにいようか。

また
お偉方が
弱虫でケチだとか、
不正直だとか、
自己中心的で、
性の面で不道徳だとか、
虚栄心が強いとか、
大酒飲みだとか
判明すると、
人はショックを受ける。

一般大衆が
英雄視している人の欠点を
大衆の前に暴くのは恥ずべきことだと考える人は多い。

しかし、
個々の人間と人間との間に大きな差異はないのだ。

誰もかれも、
偉大さと卑小さ、
美徳と悪徳、
高貴さと下劣さ
のごたまぜである。

中には
性格の強いものだとか
機会の恵まれたものもいて、
何らかの分野で
自分の天分を思う存分発揮したものもいるだろうが、
潜在的には
みな人は同じ人間なのだ。

私自身について言えば、
大多数の人よりも
良くも悪くもない人間だと心得ているのだが、
もし生涯でなしたすべての行為と、
心に浮かんだすべての想念とを
書き記したとするならば、
世間は
私を
邪悪な怪物だと思うことだろう。

人を判断するときには本当の自分の姿ではなく

自分の理想像を基準とするために

厳しいものとなるというのだ。

自分自身に当てはめて考えると

人を非難することなどできなくなる。


けれども

そこで重要となるのは

多くの落ち度や間違いや失敗を

その人自身がその人自身でそれを認めることなく

他に責任を負わせるようなことをするということだ。


反省のない人は

同じことを繰り返す。

その繰り返すことを非難していると言える。


生死がかかっていることであれば

生死がかかっていた時代あれば

重大なことだからだ。

自分が心の中で
考えていることを反省するならば、
誰でも
他人を非難する図々しさを
持ちうるはずはないと
私は思う。

ただ他人のことについて

とやかく言うことは

慎みたい。

他人の生き方について

口出しをすることは

自分の範疇を超えていると思う。


人に対して悪い影響が大きくなければ

みんな

好きなように生きればいいと思う。


好きなように生きることができる時代となった。

凄いことだと思う。

よろしければサポートをお願いします。