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急性一過性精神病性障害の話①

2年前に、とても奇異な体験をしました。

当時まだ 今よりも新型コロナが怖い病気とされていた頃、

それに罹ったことで精神をやってしまったのです。

その時起こったこと・あった幻覚・周りの方達の対応・治療法

などを、どなたかの役に立てればと思い記録します。


治療は2年ほど続けていましたが、今は回復して服薬もやめております☺️

なので、もし同じ状況の方がいても "大丈夫ですよ"というメッセージになればという思いも込めて綴ります。



予兆

コロナに疾患し戦いが始まったのは2021年5月からですが、

その前から結構私は あまり精神状態が良くありませんでした。

元々感情の起伏が激し目だったことに加え

コロナ禍で 大好きで生きがいのライブにもまったく行けなくなり、

一人暮らしで家に籠る日々が続き、仕事もリモートワーク、

孤立した日々を送っていました。

友達の些細な言葉に傷ついて喧嘩をしたり、

わずかな光や音でも眠れなくなってしまい 雨戸や遮光カーテンで真っ暗に覆ったりしていました。

テレビの小さい赤や緑のランプすら駄目だったので、今思うともうそのあたりから異常は始まってたんですね…😢



そこへ、コロナ陽性となります。



コロナ入院まで

当時はまだ、逐一保健所と連絡を取る形でした。

あれは一人暮らしの患者には至難の業で、

熱でボーッとする頭にあり得ない量の情報を流し込まれました。

・何日が発症日だが、なんかの都合で実際は何日
・どことどことどこにこう伝える
・保健所が時間外の場合電話できる場所が3箇所
・何時と何時と何時に様子伺いの連絡が来る
etc.

これ以外にも、友達・職場・そして誰より心配してくれてしまっていた両親(この両親の心配がのちに精神病に繋がる不安へと伝播していきます)、

等 ありとあらゆる人たちに連絡を取っていました。

熱と不安でボーッとするのに。

もうこの辺りから始まっていたなと思います。


初めは陽性と聞いて

(あ、ついにか〜😄)

程度に思っていたのですが、

両親に連絡したところ異様な心配をされました。

それもそのはずです。

コロナも今より毒性は強かったようですし、

まだワクチンも一般人は誰も打っていませんでしたし、

一人暮らしの若者がひっそり亡くなった、のようなニュースが連日流れていた頃です。

「若い人でも重症化することがあるのよ」
「ウイルスは倍々に増えるから…」

のようなことを電話で言われ、

それまでは自己防衛のためにあまり重く考えないようにしていたのに

段々両親のその言葉に蝕まれていくのを感じました。


各所との連絡や不安で上手く休めないので、

まず心身の健康に一番響くこと

・眠れない
・食べれない

が早々に起きました。

元々私は眠るのがかなり下手です。

少しの興奮や考え事で、朝まで眠れないことなんてザラにあります。

そんな私に、この状況で眠れというのは至難の業でした。

咳き込むし、喘息のようにもなって 喉がヒューヒューといいます。

コロナは重症化すると重度の肺炎になるとのことで、もう肺炎は始まってるのでは、なんて嫌な考えが浮かび続け、

初めの夜は寝れませんでした。

やっと朝方に数十分寝付けても、

9時には保健所からの「熱何度ですか?」の電話で叩き起こされる……

無理、っす😭マジで今思っても。

もうこの頃から、電話の着信音が怖くなってきていました。

両親が人よりもコロナを不安視してたのもあり、

パルスオキシメーターをすでに持っていて、

私にも送って「これで頻繁に血中酸素濃度を測りなさい」と言われました。

指を挟んで数字が出る簡単なアレです。

96より低いと危険、とのこと。

私もかなり不安だったので、頻繁に測っていましたが、

測りすぎて良くなかった気もします。

数字が頭を離れなくなり、少しでも数字が下がると気が狂いそうになり、

熱は下がらず、

眠れず、時間の感覚もないためごはんを食べるのも水を飲むのも忘れ、(ほんとに フッと一瞬気を抜いただけで3時間とか経ってるんですよね。完全に自律神経がイカれてたと思います)

悪循環でした。

あれだけ母が心配していて、父から
「ママ落ち着くために瞑想してたよ〜」

なんて話まで聞いてしまったので、

母こそ眠れてないんじゃないか……という不安がまたプラスされ、

眠れない夜3日目 ぐらいをやりました。

ここで既に70時間以上は寝てないことになるのかな😇

翌朝母と

「寝れた?私一睡もできなかった☺️」
「一睡もしてないの!?ママぐっすり寝ちゃったよ…」

という会話があり、

なんだ寝れないのは私だけか…普通の人は心配事あっても寝れるもんなんだな……

とまた孤独に思ったのを覚えています。


「さすがにごはんは食べて」

と言われたので、普段は好物のカップ焼きそばを作りました。

でも味覚障害も嗅覚障害もあったため、味がしません。

表現があれですが、焼きそばとディープキスしてるようで気持ち悪かったです。


こんな私を一人にするのは親も不安だったようで、

早く療養ホテルに入れてもらいなさいと言われました。

ですが、当時流行っていたのかなかなか空きがなく、早くて3日後と言われました。

初めはその時をなんとか待とうと思ったのですが、

また夜にお惣菜を食べていたとき手から箸が落ちました。

箸を掴む力もなくなっていたのです。

今思うとそれはコロナの症状というより不安から来る震えだったと分かるのですが、

当時はもう半狂乱でした。

そんな弱ってしまったのかと。

泣きながら親に電話をし、

そんな電話をもらっては 状況もよく分からない親はそりゃ大慌てにもなるはずで、

「もうなんでもいいから救急車呼んで病院入れてもらいなさい!」

と言われました。

暗闇で自分で救急車を呼びました。

そんな経験初めてです。

救急隊が来ても もちろん私は身体の数値的には全然軽症の元気な人なので、

「何か食べた?」
「ゼリーだけか〜😅」
「こもりっぱなしでやんなっちゃうよねぇ」
「そっかそっか」

みたいな子供をなだめるような会話をされ、

そのまま自分の足で家に帰されました。

こんな恥ずかしくて惨めな経験なかなかないです。

こっちは死ぬかもしれないと思っていて、

親にも死ぬほど心配されていて、

私は元々中国が好きで 中国だと感染したら当時は即座に隔離され病院で手厚い治療を受けられると聞いていたので、救急車の中で一応の検査を受けながら

「中国行きたい…」と言ったら死ぬ前の願望と捉えられたようで 母に
「コロナごときにやられるなよ〜!😭💢」

とか本気で叫ばれたり。

そんな状況、救急隊が知るはずもないんですよね。

身体的に救急でなければ病院には連れて行けない。

当たり前なんですけど、当時は訳がわかりませんでした。

救急車も頼れないんだ、と絶望的になったのを覚えています。


その後の保健所からの連絡でそのことを話したら、

その時のお姉さんは初めてちゃんと私のこの状況を大変と思ってくれました。

「救急車呼んじゃったんですね!?熱も下がってないようですし… なんにせよホテルは38度超えてる人は入れないし、入院の手配すぐしますね」

と言ってくれました。


母に伝えると「やっと安心の場所で療養できる………」とホッとしてましたが、

私的には"これからコロナで入院する"

もう帰れないのかな、ぐらいの覚悟すらありました。

防護びっちりのミニバスみたいなのに乗せられ、

道行く人が嘘みたいに見えました。

みんなそんな出歩いて大丈夫なの……?

外にいたら、感染するよ……?

そんな心配ばかりしていて、

心はもう経験したことのない恐怖の前で逆に冷静でした。

思考する機能が停止してしまってたのだと思います。



病院に着くと、

感染症専用の特別な裏口から入りました。

私が歩ける状況じゃなかったからか みんなそうなのかは分かりませんが、

車椅子に乗せられ、

赤文字で「この先汚染エリア」と書かれた扉の先へ連れて行かれます。

はは…私は汚染物か……☺️

もう色々刺激が強過ぎて、ほんとうに頭が止まってました。



極め付けは、入院時に書かされた同意書に

「身元引受人」の欄があったこと。

身元って…あぁ…そういうこと?そっか…

私の遺体、ママのとこ行くのか…

なんて思いながら

私それまで大きな病気も怪我もしてこなかったので、入院自体が初めてだったんですね。

それだけでもう混乱しかありませんでした。



入院即採血がありましたが、脱水症状だったようです🤒

確かに、食べるのも飲むのもしばらく忘れてましたね。

そういう感覚も無くなってしまうんですね。空腹感とか喉の渇きとか




今回はこのへんで。

これはまだまだ序の口で、

ここから大変な 本当に大変な生活が、

始まるのです………😭

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