見出し画像

4/30 『鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの汲めども尽きぬ随筆という題名の小説』を読んだ

ウフフフフ爆笑。いや爆笑はさすがにしてないし、ウフフフフとも声をあげて笑いはしなかったが、終始ニヤついて読みたくなる小説だった。まあニヤつきながら本を読んでいたら不気味なので、結局無表情で読み切ったわけだけど……多分。気持ち的にはウフフフフ爆笑。
一言でまとめるなら、「西尾維新の特長ともいえる無駄に手の込んだ言い回しや野放図な言葉遊びが、手段ではなくそれ自体を目的として書かれた小説」とでも言うべきか……あるいは「西尾維新が『西尾維新みたいな小説書いてください』って言われて書いたみたいな小説」。でも本作はそうやって一言でまとめようとすること自体が本作の面白さを損なうことになってしまう気がする……まとめようとする暇があるならさっさと手に取って通勤時間中とか一晩の間とかまとまった時間に一気通貫で読んでしまえと言いたい。そんなに長くないし。まあ、言うて自分は数日かかってしまっているんだけど。
ひとりリレー小説のような、あるいはひとり揚げ足取り大会のように、一体誰にどれだけ配慮しているんだと思うような自省、自戒、自己弁護が繰り返されるが、おそらく誰かにどれだけか配慮しているわけではなく、文中にもあったようにひたすら自分で自分の心に訊いてるだけなのだろう。誰が? 鬼怒楯岩大吊橋ツキヌか、あるいは西尾維新か。そこまではわからない。ただ、あらゆる文章のあらゆる表現を恣意的に切り取り解釈する機会をあらゆる角度から狙っている昨今のメディア情勢に一石を投じるような意図よりは、あるいはそういう風潮さえも逆手にとって娯楽にしてしまえるのだという気概を感じたのだが、それもどうかはわからない。でも、最初はいつまで配慮してるんだと開始数ページでうんざりしそうになったところを、その後の数ページでもまだずっとやっていて、ひょっとしてこれ、いつまでもやる気か? と思えてからはどんどん楽しくなってきたし、そして本当に最後までずっとそうだったのだから。こういうことが小説にできるんなら、文芸にもまだ希望があるんじゃないかと、本作の初出が文芸誌であったことなども思い出しながら、にわか文芸の未来を憂える者として思った。なんかしまいにゃ「言葉遊びはこうやってするのだ」と西尾維新が言っているようにも思えてきたのだ。ひとつの文章を書いた後に、そこにツッコミどころを探していけば、やってるうちに表現や修辞くらいしかツッコミどころがなくなって、しだいに言葉遊びになっていく。西尾維新文体養成ギプスか。じっさいこの文章も、書いた後にいちいち前文の補足や修正を入れたくなってしまっている。誰かに配慮しようと思ってやるのではなく、それを考えること自体が楽しくなっている。
ページが終わりに近づいても一向に話が進まない語り口に、常ならいつ収拾つくんだと不安になるのに、今作ばかりは一体どうやって終わらせてくれるのかとずっとウキウキしながら終わりの一文を待ち構えていたが、期待を裏切ることもすかすこともなく見事に鮮やかな着地を決めてくれた。かーっやってくれる。ついでに言うなら読み終えた後に裏表紙をあらためて見て、その駄目押しのオチ(※1)に余韻も絶品。傑作でした。


※1……https://twitter.com/moderatdrei/status/1785327877187424428


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?