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11/30 『あとは野となれ大和撫子』を読んだ

タイトルに惹かれて手に取って、あらすじを見て面白そうと思い購入。著者の宮内悠介さんの作品は『盤上の夜』と、あと短編を何作か読んだことがある。あと、宮内さんが編集をしたアンソロジーも読んだ。
だがそのタイトルやあらすじの強烈なフックは、良くも悪くも働いた感がある。主人公のナツキは物心つくかつかないかの頃に家族を戦災で失い、後宮(が形骸化した教育機関)に拾われて高等教育を受ける。そこには様々な国からそれぞれの事情と信念、或いは信仰を抱えた女性たちが集められており……ってなるともう、日本人とか関係なくなってくる。日本人の少女が中央アジアの新興国で後宮入り? しかも政変に巻き込まれた挙句国家運営!? というフックが、もう結構この時点でダルンダルンだ。5歳で母国との繋がりが一切失われて、教育も現地で受けたとなると、むしろよく日本語とか現在まで憶えてられたなという気になる。国としての日本も結局全然関わってこなかったし。別に現代日本の文化や価値観で異国を無双してくれと思って買ったわけじゃないが……いや、どうかな、そこでがっかりしてるということは、やっぱ欲しがってたのかな、無双。いやそもそも、苛酷な環境や多くの紛争、過激派組織を近隣に置いた、極めて現実に近しい中東の混沌極まる政治情勢に、現代日本の価値観なんぞで挑んだら容易くへし折られて丸めて捨てられていたのかもしれない。だから主人公には、早々に日本の常識は捨て、アラルスタンの高等教育を受けてもらっていたのかも。
だがそれならば尚更に、日本人である必要が薄れては来ないか……日本人作家が書いた作品で、メイン読者層も日本人を想定している以上、日本人の主人公を置いて読者の共感を誘ったか。しかしそれでもやっぱり、ナツキのパーソナリティや価値観は現代日本人のそれとはやや離れているんじゃないかな……それならば、断章で差し挟まれていたママチャリ大学生をもっと、国家運営することになった後宮のお嬢さんがたの傍に置いて、彼の視点で物語を動かすなどしても良かったのでは。いや、タイトルの語感が素晴らしく、この作品を表すのにこれ以上相応しいタイトルは無い、というのはわかるんだけど。解説の辻村深月さんによる「大和撫子」論も大いに頷ける。
また、前半のAIMとの攻防と、後半のイーゴリとのやりとり、そして演劇シーンでは、なんだか随分と作風が変わったように感じた。前者は緊迫した戦略の駆け引き、相手の意図の読み合いなどでひりつかせるが、後者はじゃっかん喜劇めいた、様々な人物の思惑が交差したり空振ったり土壇場で輝いたりと違った意味でハラハラさせていた。実際作中においての余裕のあるなしの違い、攻守が入れ替わった結果とも言えるが。どちらも楽しめることは楽しめたが、あまりに空気感が変わってびっくりしたのも正直なところ。
あと、小さな疑問として、ナツキの心の中での呼称でしかなかった〝大柄〟と〝眼鏡〟が、ナツキのいないとこでさえ、最後まで〝大柄〟〝眼鏡〟という表記だったのも気になる。最初は序盤ですぐいなくなる端役だから名前もなかったのかなと思ったら、最後までちゃんといたし。どういう意図があったんだろ。
などと、事程左様に、あれこれ言ったり、プロデューサー気取りでちまちま付け足したくなってしまうのは……この作品が今すぐ映像化してもいいほど、情景描写や質感が巧みで現実味に溢れているから、というのはあるだろう。実写でもアニメでも、どっちでも行けそう。ジャパン要素は期待したよりは少なかったが、そのぶん中東文化の描写はふんだんに盛り込まれている。でてくるファッションやら食べ物やらをいちいちググって、イメージを膨らませられた。
国家もどうにか難局を凌いで、ナツキたちのこれからも目が離せなさ満載だし、単巻で終わるのは勿体ないと思う。それこそ七代先まで、この塩の大地に生きる人々の行く末を眺めてみたい。

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