見出し画像

11/15 『小説 シドニアの騎士 きっとありふれた恋』を読んだ

これを買った頃はまだ『リコリス・リコイル』も放送されておらず、著者のアサウラさんの印象といえばアニメを観たことのある『ベン・トー』の原作者であること、爆笑問題カーボーイのヘビーリスナーであったことくらいだったな……と回顧しつつ読んでいた。読んでる途中で、アマプラで劇場版の『シドニアの騎士 あいつむぐほし』も観た。仄燧も一瞬だけど出てきていた。金打ヨシは……確認できなかったが、どこかにいたのかもしれない。
そうしてさまざまなメディアを横断してみて思うのは、どれも『シドニアの騎士』だったな、ということだ。弐瓶勉作品は、自身は強烈な唯一性を持っているのに、他のクリエイターの同居を全然許す。広大でありながら混沌とし、うそ寒いほど寂しくありながら臭い立つほどの蒸し暑さも漂わせる世界観がそうさせるのか。本作も『シドニアの騎士』の一側面としてすんなり没入でき、楽しめた。
ヨシと燧の恋愛模様は微笑ましく見守っていたものの、ただ二人の気持ちのすれ違いやら、お互い先に進みたいのに躊躇しあったりしてるところに、じれったい~とかやきもきする~とかよりも、ややうんざり寄りな気持ちを抱いていたのだが、これは単に俺が恋愛ものを読むのが得意でないだけというのもある。この気持ちは恋なんだろうか……そんな高尚なものじゃなく、もっと惨めで下卑た感情なのでは……自分に相手を好きになる資格なんてないのに……とか、うんうんわかるよそういう気持ちってあるよね、と共感はあったとしても、でもまあそれを文章で読んだとて! という気分になってしまう。それはなんか、小説や物語で追うものでもない気がするのだけど、まあまだよくわからない。
一方で中性の身体がどういうものであるのか、かなりがっつり描写されているのは、さすがに小説だからこそ描ける、小説でしか描けないものだったろう。生々しいしな。ヨシは自分の個性を未だ選択せざる者として、燧は同じ個性を備えた姉妹を何十人と持つ者として、それぞれに悩み、やがてそれぞれに答えを出すわけだけれど、その上で最後のヨシの姿というか、末路というかには、唖然としつつ笑ってしまう。まあ、そんくらいの技術はあるよな……と。そもそもが科学技術によって生まれた個性の悩みであったわけだし。自分の心や人間関係で悩みつつも、そんなもの関係なく巨大なものに容易く振り回されたり、壊されたり、しぶとく生き延びたりするのがまったくらしいと言えるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?