見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[057]ヨーゼフが探し出した羌族

第3章 羌族のドルジ
第2節 山東半島の羌族
 
[057] ■4話 ヨーゼフが探し出した羌族
 ドルジが騎馬隊に入隊したちょうど翌年、ヒンガン南麓の地で、ヨーゼフはずっと探していたキョウ族に出会った。ドルジの父たちの一家だった。匈奴と鮮卑が入り混じって住む地を商いで回っていて、住まいを定めて牧場で馬を育てるドルジの父を知った。自分と同じような顔貌かおかたちをし、昔風のソグド語を使うので経緯いきさつを聞くと、シーナセイから移って来た羌族だという。
 ――斉といえば、海際にある国ではなかったか……?
 と思ってじっと父を見ると、
「一人、息子がいるのだが、去年、鮮卑の騎馬隊に入って去った」
 と嘆いてみせた。
夕餉ゆうげをともにしよう」
 と誘うのでばれ、長居した。すると驚いたことに、このような原の真っ只中でどうやって手に入れたものか、赤い葡萄酒が出た。
「亡くなった父の古い知り合いたちがここを探し当てて、そのときに持ってきたものだ」
 と、事もなげに言う。次第に酔いが回ってくると、父は唐突に、
「自分はタナハを読む。しかし、息子のドルジが戦さで死ねば、それもわしの代で終わる」
 と言った。父はヨーゼフを一目見て同族と見抜いていたのだ。
 他の者であれば、何のことかと聞き流すだろう。しかし父が見込んだ通りに、ヨーゼフは違った。驚き、しかし、そういうこともあると思っていたかのような顔をして、しばし黙した。
 ――なんと、同族ということか? まさか、このような地で出会うとは。わしの同胞はこれほどまで東方マッシレックに来ていたか……。
 互いの目をじっと見た二人は、ほぼ同時にゆっくりと空を見上げた。ヨーゼフは思わず両手を挙げ、「神よ!」と口にした。
 いろいろ話してみると、父がタナハと呼ぶ巻物はヨーゼフがトーラーとして知るもので、しかも、それをさらに簡略にしてあるようだった。その巻物は手元になかったので、何が書いてあるかと二人で突き合わせてみると、その骨子はほぼ同じだった。
 ヨーゼフは考えた。
 ――長い年月としつきの間に変わってしまったのだ。何しろ、この男が言うように、家のだいが替わるたびに新たに書き写すというのならば、縮めなくては何十代も続けるのは難しかったろう……。

 このことをきっかけに、ヨーゼフは二度、三度とドルジの父を訪ね、何かと身の回りのことを助けるようになった。娘の婚礼にも立ち会った。
 ドルジの父の一家と過ごす日々は、ヨーゼフにとって、季節の移り変わりを知らせる野の花や装いを変える遠くの山並みを眺めやるときのように、おのれがフヨの大地で確かに生きているという喜びを噛みしめる瞬間ときだった。
 二度目に訪れたとき、二人はドルジの話からはじめた。
「この間ここに来たとき、一人息子が戦さで死ねば、タナハを読むのもあなたの代で終わると言っていた。それはどういうことだ?」
「……。ドルジの母は胡人ではない。吾れは、胡人とは一緒にならなかったのだ」
「んっ?」
「吾れの亡くなった父は胡人としての営みのすべてをやめた。子供の頃にあった大きな戦さでひどいところを見てなぁ……。神はいないと、信仰を捨てた」
「そうか……」
「吾れもそうやって育てられた。だから吾れは、実のところ、心から神に祈るということはしたことがない。起きたときも、寝る前もだ。胡人だと思ったことも、そう口にしたこともない。外からは胡人に見えていたのかもしれないが……。
 しかし、文字だけは覚えるようにとしつけられた。そのときに、タナハの何か所かを使った。書き写したのだ。長い間、タナハにある物語は吾れを寝かしつけるためのわらしの話だと思っていた。
 だから父は、吾れが胡人ではない娘を見つけて来ても何も言わなかった。婚約も宴会もしていない。父はそれでいいと言った。胡人がやる婚姻を息子にさせるつもりはなかったのだ」
「うーんっ、そうか……」
「だから吾れは、真の胡人とはいえない。息子のドルジとて同じだ……」
「……」
「だから、だからと、何か言い訳しているようだな。そんなつもりはないのだが……。しかし、その父も、死ぬ間際になって、信仰を捨てたことを悔いていたのかもしれない」
「ん、何かあったのか?」
「ああ。タナハの書き写しだけは、なんとかドルジにやらせてくれと言いのこした。何しろ、何十代も続けてきたことだ。自分の代で途切れるのかと、心残りだったのだろう。吾れはそのとき、何をいまさらと思った。もっとも、父が言いたかったのは、文字をしっかりと書けるようにしつけろということだったのかもしれないが……」
「タナハを書き写すこと自体が神を信じることだと、わしは小さい頃に教わった」
「そうか……。実は、吾れが本物の胡人を見るのはあんたが初めてだ」
「そうなのか……? しかしわしも、本当の胡人かどうかは怪しい。わしの妻はフヨの女だ。胡人ではない。息子が一人いるが、祈りの言葉すら知らないと思う。わしはといえば、昨日の夜など、あまりに疲れて祈りもせずに寝た……。ただ、アブラムの一族であることは間違いない。それは信じている」

第2節5話[058]へ
前の話[056]に戻る 

目次とあらすじへ