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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[025]初めて見る馬

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第1節 フヨの入り江
 
[025] ■3話 初めて見る馬
 目線をハヤテの背から舟の方に戻そうとしたとき、北の浜の奥にトビ色や黒の大きな生き物が数頭現れた。
 ――大きな犬のようだ……。
 ナオトがじっと見入っているのを横で感じて、何かを思い出したようにカケルが言った。
「……。あれはウマだ、初めて見るのだな? 便利なものだぞ。三人分の荷を背に乗せて軽々と運ぶ。野で育てれば、人を乗せて走る。草の原を駆けるときには、いい風を受けてすべる舟の上にいるように、気持ちがすっきりと洗われたようになる。しかも、舟よりもずっと速い」
 ナオトは、「ウマ、ウマ、ウマ」と三回口ずさんでその言葉を覚えた。
「体を清めたら朝餉あさげだ。みなで何か食おう」
 カケルが声を掛けると、舟子たちが嬉しそうに「おおっ!」と応じた。
 浜の仮り屋で横になって手足を伸ばした後に、カケルとナオトはいつも舟荷を預けるという商人の蔵に向かった。ヒダカに持ち帰る鉄も、もとはその商人が見つけて来てくれたのだという。
 浜で行き交う人々は、みな、伸ばした髪を頭の後ろで結い、短い袖の付いた白い上衣と下穿きを身に付けていた。ナオトの目には少し大きめに感じる。くつを履く人もいるようだが、浜には裸足の人が目立つ。
 ヒダカの人たちがわずかに混じっている。丸めた長い髪を頭の上で紐で結い、前で合わせた袖のない麻の上衣を縄を回して留めている。下穿きは膝の下まであってヒダカで見るものよりも長い。みな裸足のようだ。
 ヒダカ人はフヨ人と腰つきが違い、髪の結い方も着るものもわずかとはいえ違うので、どちらなのかすぐに見分けが付く。カケルに訊くと、「お前の言う通りだ」と答えた。

 坂道を南に上っていって蔵の入り口を何十歩か通り過ぎると、後ろを振り向いたカケルが、下に見える小島二つの左を指差して言った。
「あの二つの島の先にどうにか見えているのが息慎ソクシンの入り江だ。おそらく湊には数多あまたの舟が泊っているだろうが、山の陰になっていてここからは見えない。
 あの半島を北に行くと息慎のおかで、それはこのフヨの陸と出会う。そこに見えている海は湾になっているのだ。フヨの入り江から湾の北の突き当りまではいい風があれば舟で一日だ。この後、吾れはそこに向かう」
「えっ、まだこの先があるのですか?」
「まあな……。だが、お前はここで休む」
 そう言ってカケルが笑った。
「いまから会う商人はソグドの人だ。息慎の入り江よりもフヨの入り江の方が気に入っているという。その理由わけは、西にあるフヨのみやこまで馬で三日あれば着くというのが一つ。海から来るわるものに襲われたときに、フヨの陸側の方が逃げやすいというのが一つ。その考えが、吾れには合っている」
 そのためにカケルは、フヨ人でないゆえの不利を知っていながら、敢えてこの商人を選んで取引しているのだという。
 ――ソグド? そうか、その商人はフヨの人ではないのか……。しかし、ソグドとはどこなのだろう?

 低い丘の中ほどにある蔵まで、三方から道が通じている。西に丘があり、行こうとすればそちらにも上って行くことができ、そのさらに奥には低い山並みが続いている。南西側はマツに覆われた段丘のようになっており、
「下ると川があって、きれいな水が流れている。その川沿いに西に向かう道は都まで続いている」
 と、カケルが教えてくれた。

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