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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[070]アルマトゥからハミルへ逃れる

第3章 羌族のドルジ
第5節 アルマトゥから来た男
 
[070] ■6話 アルマトゥからハミルへ逃れる
 セターレが訊いた。
「ヨーゼフ兄さんたちは、あの後、どうしたのだ。ハミルには行かなかったのか?」
 ヨーゼフは、コシでセターレと別れた後に起きたことをナオトにもわかるようにと言葉を選びながらゆっくりと話しはじめた。
「お前の隊商とともに、もともと目指していたコシの国まで来て、『交易の品を届けて用事を済ませたら、すぐに後を追う』と言うお前と別れて、わしら兄弟は先を急いだ。『ハミルまで預けておく』と貸してくれたロバ一頭の背に身の回りの品を載せて、信頼する取引相手だからというソグド商人に会おうと東のハミルに向かった。

 ずいぶんと久しぶりだったが、実は、ハミルはわしにとっては何度目かの見知った国だった。まだ若い時分、大量の種ムギを西のイリ川沿いから運び込んだことがある」
「種ムギ? 初めて聞く……」
「お前がまだ子供の頃、バッタの害でジュンガル盆地全体が飢饉になったのを覚えているだろう? わしはそのとき、種ムギを取引してその後の商いの元手もとでを作った。
 ハミルに着いたわしは、まず、そのとき一緒にムギを扱って大儲けしたバザールの男に挨拶しに行った。大きな商いをするようになっていたそのソグド商人の家には先客がいた。そして、その場を立ち去りがたくなった。
 セターレ、お前とはすぐにも会えると思って気楽に別れた。しかし、その再会がまさか四十年後の今日になるとは、あのとき、わしは考えてもみなかった」
「ハミルには行ったことがあると、あのときヨーゼフ兄さんは言っていた。しかし、……」
「そうなのだ。お前にいろいろと話したのでは、かえってお前が役人から問い詰められると考えて、わしは黙した。お前にも弟にも詳しくは話さなかった」
「……」
「ハミルはコシと並んで東西の交易には欠かせないオアシスの国だ。そのハミルをいまは匈奴という遊牧民が支配していると、旅の途中、お前に聞いて初めて知った。お前が、『匈奴はアルタイで採れる黄金きんをハミルに持ち込む。そこのバザールに入り込めば、サマルカンドの役人に見つかることなど決してない』と教えてくれた。
 それに、『いま、匈奴には勢いがある。ヨーゼフの商売上手を生かすにはハミルに限る』とも言ってくれた。それがわしら兄弟のその後を決めた。わしはその通りだと思い、ハミルで出会った人たちがきっかけとなって、前に一度だけ手を染めた黄金きんの商いをまたやってみようと考えたのだ」
「そうか、兄さんたちはずっとハミルにいたのか……」
「いや、そうではない。翌年の春を待って、一度行ったことのあるアルタイ山脈の北のハカスに向かったのだ。
 二十歳になる前、わしはバクトリアからラクダに乗って北のカザフ草原に向かい、ハカスに入った。きんを求めての旅だった。帰り道はタンヌオラの山越えを選び、ラクダの背に揺られて乾き切った道を南に向かい、ハミルまで下りてきた。そのときの道のりを、今度は、ダーリオと二人で歩いて北に向かったのだ」
「ハカス? 兄さんたちはあの北の果てのハカスの地まで行ったのか?」
「ああ。そして、そこで一年過ごした」
「……。それで、ハミルで出会った人々とは誰だったのだ?」
「ハミルの商人のところにいた先客だ。遠縁とおえんを頼ってきたという胡人こじんの親子だった。
 子供好きのダーリオは、その子等とすぐに打ち解けた。どこから来たと問うと、はるばるシーナのニンシャから逃げて来たという。驚くだろう。シーナだぞ。
 一家四人を率いる男は、アルタイ山脈を越えてなお北に向かい、黄金を掘っている兄を頼ってハカスまで行くと決めたところだと言った。他にも何家族かいて、ハミルの胡人の家々に分かれて世話になっていた。みな一緒にハカスまで行って金を掘って暮らすつもりだと言う。
 たぶん、どれほど遠い道のりなのか知らなかったのだと思う。
 わしは、幼い頃、バクトリアで漢の商人を見たことがある。父を手伝って交易をしてきて、国と国とがどういう位置にあるかはある程度わかっていた。ハカスに行ったことも、アルタイの山々を越えてハミルまで下りてきたこともある。その広さはよく知っている。誰かの案内がなければとても無理だと思った。
 わしは、その男の子たちの話す言葉がバクトリアで幼い頃に聞いた言葉と同じなのでびっくりした。ソグド語ではない。わしらアブラムの一族が話す言葉だった。
 それに、二人の呼び名を聞いて、どこか自分たち一族の名前に似た音だなと思った。その子等が何という名前だったかは思い出せないが、確かに、自分たち同族の間で聞く名だった。
 二人の子の父親は堅気かたぎそうな男だった。井戸掘り職人だと言ったと思う。わしよりもいくつか年上で、長い顎鬚あごひげを生やし、いつも青い帽子を被っていた。
 わしは自分たちの正業しごとについて話し、ここまでの旅について語った。聞き終わると、その男は疑うようなそぶりも見せず、代わりに自分たちの身の上を話した。はっきりとは覚えていないが、その男の話は次のようだったと思う。
 自分たち胡人の一団は、五十年以上前に漢の西のニンシャというところに住みはじめ、自らをニンシャと呼ぶようになった。同族の者が、多いときには数千人も住んでいた。なんと、バクトリア生まれの者もいたという」
シーナに我らの同族が村を作るほどにいるというのか? 不思議なことがあるものだ……。そのように多くの者がシーナに移って行ったなど、いまのいままで聞いたことがなかった。いつ頃のことだろう?」
「いまから百年ほど前だ……。ニンシャに住みはじめてから何十年も経ったある日、何とかという漢の将軍がニンシャにやってきて、一族を挙げて南に移るようにと告げた。仲間の多くは言われるままに南に移ったが、自分ら数家族は従わずにハミルまで逃げてきたのだという。
 シーナといえば、ハミルから東に歩いて一月では行き着かない。乾いた険しい道が続く。そこを通り、幼い子を二人も連れてここまでのがれてきたという。にわかには信じられなかった。
 わしは、『あなたの一族の名は何という』と尋ねた。すると、『シーナではリーと名乗っていたが、もともとはレヴィだ』と答えた。わしは驚き、やはり同族ではないかと、思わずその男の両手を取った」

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