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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[082]白棱河(ハクレンビラ)の第一夜

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第2節 舟路を急ぐ
 
[082] ■2話 白棱河ハクレンビラの第一夜
「もうすぐ白棱河ハクレンビラだーっ」
 ハヤテが、後ろに続くもう一艘に向けて大きな声で伝えた。
 小舟はハンカ湖の北岸から白棱河の河口に入り、西に向かってさかのぼって行く。

 日のあるうちに舟寄せに着いた。舟を下りて岸のくいに麻綱で止め、みなで力を合わせて荷揚げした。空舟が二艘ともしっかりともやってあるのを確かめた後に、川べりで夕餉の支度をはじめた。
 ナオトは、ハヤテに促されるのを待つことなく、会所を出た後すぐに鍋に入れて薄い塩水に浸けておいた玄米コメを火に掛けた。豆と小さくちぎった干し魚が混じっている。みな、コメがゆを食すことなど滅多にない。いい匂いがしてくると「おおっ」と声を上げ、煮上がりを待った。
 この近くで生まれ育った舟子がドルジとともに六頭のロバを引いて戻ってきて、「舟はここに置いたままでいい」と告げた。
 食事を済ませたフヨとヒダカの舟子たちは、思い思いに積み荷の脇に座り、あるいは腕を枕に火の側に寝転んだ。ここで一晩を過ごす。合わせて二十俵の荷がこの舟寄せに留まる。

 舟子たちから遠い方の俵の山近くに三人で膝を寄せて座る。ハヤテはしばらく帰っていないヒダカと十三湊とさみなとのことを聞きたがった。カケルは、翌日に控える匈奴との取引がなお気になるらしかった。
「帰りはどうなる?」
「荷を受け渡した後にこの舟寄せに戻り、フヨ人の舟子一人とはここで別れる。残る八人で会所に戻る。受け渡しの後、すぐにも戻ろうと思うが、取引の進み具合と風次第だな。
 この雲行きならば、この先二晩、月は出る。闇夜でなければ、お前が水の上で迷うことはないだろう。たとえ戻りが夜に掛かっても、この白棱河ハクレンビラの舟寄せは早いところ離れた方がいいと吾れは思う」
 ハヤテの話を聞き終えたカケルは「わかった」と頷いた。
「さすがだな。いろいろとよく考えてある。あとは、明日の朝、コメとフヨの鋼を穆棱河ムレンビラの向こう岸まで届けるだけだな」
「ありがとう。その通りだな……」
 と、ハヤテが短く応じた。
 ――このような困難が目に見えているのに、匈奴はなお、国の東側から物資を運び込もうとしている。漢との戦さがすぐにもはじまろうとしているために、無理をしてでも取引を進めたいのだろう。
 吾れらからすれば、西の海を渡り、恐ろしい匈奴を相手にしてまで取引しようというのだ。危さがいたるところに潜んでいるのは承知の上だ。それが嫌だというのならば、十三湖で魚でも干して暮らせばいい……。

「このたびの取引がうまく運んだならば、しばらく続けてみよう」
 カケルの腹はすでに固まっていた。
 立ち上がったカケルが火の側まで行き、ドルジと言葉を交わしている。これまで聞いた覚えのないカケルの笑い声が聞こえてきた。カケルが運んできたくぼて白湯さゆを礼を言って受け取ったハヤテとナオトは、静かに語り出したカケルに耳を傾けた。
十三湊とさみなとの古い言い伝えでは、北の島のそのまた北にはもう一つさらに大きな島があって、そこの西側にある海境うみざかいは、海が凍る冬には氷を踏んで大陸むこう側に渡ることができるという。前に話したと思うが、その島をカラプトと呼んでいると、俺を救ってくれた皮舟かわぶねの猟師が教えてくれた。
 ハヤテ、お前も知っているシタゴウと吾れは約束した。いつか自分の足でその北の果ての地を踏むと決めたのだ。しかし、いまの吾れは昔の吾れではない。お前や、十三湊のみなから舟長と頼られる身で、それに、家ではカエデが待っている。
 シタゴウとの約束を果たせるのか、それがいつになるのかはわからない。しかし、いつかは渡る。いつもそう考えてきた。そのときは、あの、吾れが追われた馬に乗る者たちと再び出会うことになると思っていた。そしていま、お前と一緒に吾れは、その馬に乗る匈奴という部族と取引をしようとしている」
 ――カケルは前に匈奴から追われたことがあるのか……。それを救った皮舟の猟師? それに、シタゴウという人は誰なのだろう。もう亡くなっているのか?
 二人から少し離れて座るナオトは、目をどこに向ければいいかと迷いながら、そう思った。
「ああ、それは前に聞いた。カラプトはまだ諦めていなかったのか?」
「いまのところはな。それでさっきのお前の話になるのだが、聞いていて、匈奴はフヨの入り江までは来れないとしてもカラプトの対岸ならば来れるのではないかと思った」
「そうか。カラプトの対岸とは、息慎のおかの東の岸だ。フヨまで来るのが難しいというのならば、匈奴は息慎に入り込めばいいということだな……。それは考えたこともなかった。匈奴の相手役に一度確かめてみた方がいいな。カケル、お前は海を渡ってその息慎の東に舟を着けられるのか?」
「夏の間ならばな……。吾れが使う北の海路うみみちは、しっかりと備えをして、時と仲間を選べば、行く先がどこであれどうにか渡ることができる。カラプトの島には行ける。その対岸でも同じだ。吾れは一度、嵐の後にその岸に流れ着いたことがある。舟を付けられる岸は見つかる。
 それに、フヨの入り江に比べて少なくとも四日、この白棱河まで来るのと比べれば十日は縮められる」
「いやあ、そういうことか……。それならば、一日縮めるどころではないな!」
「匈奴の騎馬隊が息慎の陸を越えるのにどれほど日数ひかずが掛かるかにもよるがな……」
 ――あの、朝日を受けて輝いていた山並みだ。吾れが初めてみた大陸むこうのおか。あの山を越えて海際まで来いと、カケルは言っているのだ……。

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