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人に反省せずは神に反省せず 神は人に和解権を譲渡 一度も謝罪しない ウヤムヤ人生

1、人間ですら
人間に対して反省できないのだから、神に対して反省できるわけがない。
「人の話を聞かない人間が、神の話を聞くわけがない」と前に書いた。

人間に対して謝罪しない者が、神に対して謝罪できるわけがない。
毒親は論点ずらしのウヤムヤで上の立場に立とうとする。
謝罪せずに済ませようとする。
毒親は、俺が聖書に基づいて毒親の悪行を糾弾したら、逆上で絶縁宣言してきたのに、なぜか反省文も送らずに、証拠も残さずに、ヨリを戻そうと、仲直りっぽい感じにしようとする。
こういう自己中な付き合い方をしているから、人間関係がまともに作れないのだろう。

2、罪滅ぼしは神に対して
毒親が心配しているとか言うけど、心配という態度が上から目線過ぎる。
罪を贖(あがな)いたいなら、神に対して謝罪するしかない。
子供を心配すれば許されるものではない。
息子の心配をしている自分に酔っているだけだ。
神に立ち帰って、神に背かない範囲なら、そういう自己陶酔に付き合うけど、立ち帰っていないならダメだな。
何故か、心配する事で悪行が許されるという訳の判らない理屈ですり替えをしてくる。
罪に対しては、贖罪と謝罪と罪悪感でしか許されない。
「罪」という漢字なのだから、罪の漢字が付く行為(贖罪・謝罪・謝罪文・罪悪感)でしか許されない。罪に対して心配するのでは、ただの論点ずらしである。
この世を創ったのは神なのだから、その神の私有地で悪行をしたら、神に対して謝罪をする事が唯一の罪滅ぼしである。
この世界で謝罪をして良い相手は、天の主ただ一人だけ、と俺の主観では思う。

3、和解して良い
和解しなさいと聖書に書いてある。

新約聖書:マタイによる福音書:5章:24節
その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
新約聖書:ルカによる福音書:12章:58節
たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。

和解して良いと、神は言っている。
この世は神の私有地である。
普通、私有地で一方的に諍いを引き起こしたのだから、その土地の所有者が裁きを全て決める。
普通は、何か争いを起こしたら、国外追放である。
普通の国は、国内で争いを起こした外国人は、国外追放である。
だけど、天の主は慈しみの神だから、和解しなさい、和解して良い、と和解権を与える。
本来なら、人間同士の争いで、和解するかどうかは、神が一方的に命令する権利があるのに、人間同士で和解する権利を与えてくれる。
この和解権の譲渡は、大いなる恵みである。
普通の国なら、反論や自己弁護の権利も与えず、問答無用で国外追放や刑務所や死刑である。
しかし、神の国は普通の国ではなく、天の主は慈しみの神だから、反省すれば許すという和解の権利を人間に与えてくれた。
普通の国は、和解の権利を与えず、問答無用で追放・服役・死刑だ。
神は、仲直りする事を許してくれる。

4、背教者を受け入れてはならない
神に対して謝罪するなら、神に立ち帰るという事になる。
神に謝罪しないのは、神に立ち帰っていないことになる。
神に立ち帰っていたら、自分の悪行を悔いて、被害者に謝罪しに行くけど、謝罪しに来ないという事は、神に立ち帰っていない証拠だ。
立ち帰らない人間を受け入れてはいけないと聖書に書いてある。

この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。

ヨハネの手紙2 1章10節 新共同訳

俺は、毒親の悪行や加害は既に許している。
本当の信者なら、自分に対する加害は許している。
しかし、神に立ち帰っていない者を家には入れないし、挨拶もしない。

神に立ち帰っていれば、受け入れる。
神に立ち帰っているなら、過去の自分の悪行を反省して、謝罪のために反省文という証拠を残すはずである。
反省文という証拠を残さないのは、よっぽど弱みを握られたくないのだろうから、全く反省していない証拠だ。
全く反省していないから、神に立ち帰っていない証拠である。
神は和解しなさいと聖書に書いたのだから、本当に神に立ち帰っていたら、神の言う事を聞いて和解に向けて反省して謝罪して、反省文を残すはずである。
俺は、神が和解しなさいと書いてあるから、神の言う事に従って、既に毒親の悪行や加害は許している。
後は、加害者が反省して神に立ち帰るだけだ。

5、ウヤムヤ人生
論点をずらして謝罪せず、心配という態度でウヤムヤにするやり方は、神に立ち帰っているとは言えないし、神に立ち帰るための反省もできないだろう。
どうせ、今まで、一度も本当の罪滅ぼしをやったことが無くて、ウヤムヤで生きてきたのだろう。
何十年も生きてきて、一度も本当の罪滅ぼしをやったことが無いなんて、どういう人生なんだろう。
ナアナアで上手く行ったと思っているから、何回も何十回も何百回も何千回も何万回も罪を犯すのだろう。
実際は上手く行っていなくて、敬遠されて、いつの間にか人間関係が途切れる。
一度も罪を犯さない者は居ないと神は言っているから、罪滅ぼし(贖罪)の方法が判らないのは、人生で何万回も罪を犯して、一度も謝罪をしてないという事だ。

旧約聖書:列王紀上:8章:46節
彼らがあなたに対してを犯すことがあって、――人は犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時、
旧約聖書:歴代志下:6章:36節
彼らがあなたに対してを犯すことがあって、――犯さない人はないゆえ、――あなたが彼らを怒って、敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠い地あるいは近い地に引いて行くとき、
旧約聖書:伝道の書:7章:20節
善を行い、犯さない正しい人は世にいない。

6、お偉いさんに
人間のどこぞの業界は、お偉いさんに頭を下げれば、当事者同士の気持ちに関係なくナアナアで済まされる。
しかし、神はそんなのは済まさない。
神に謝罪しても、人間同士の争いの罪は許されない。
神は人間同士で和解しろと言っているからだ。
神に立ち帰っているなら、加害者は謝罪するし反省するし反省文も残して、被害者は既に許している。
簡単に許したら何度でも犯罪するというけど、加害者が神に立ち帰っていなければ、そもそも受け入れないし挨拶もしない。

この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。

ヨハネの手紙2 1章10節 新共同訳

7、被害者面
毒親は被害者面する。
そういう風に子供を育てたという自覚もなく、そこだけは対等面する。
謝罪したことがないから、結局は出来る人間関係は、そういう謝罪なんか目当てではない人間関係だけになる。
金目当てなのか、体目当てなのか、出世目当てなのか、そういう人間関係しかできず、それすらも長く続かない。
加害者のくせに被害者面する人間に近づく人間は、この程度だ。
神の言う、親の罪は親が背負い、子の罪は子が背負う、というのは、子育ての影響は、どこまでが親の罪なのかは、聖書でも結構、親の育て方の責任が書かれている。

8、自分が悪いゴッコ
いつでも自分が悪いゴッコを辞められるから、他人の罪を被るのだろう。
自分の罪を認めると、自分が悪者の立場を捨てられないけど、他人の罪を被るなら、いつでも自分が悪い立場を辞められるから、平然と他人の罪を被るのだろう。
自分が悪くない時はしゃしゃり出て自分が悪いと言って状況を混乱させるのに、いざ本当に自分が悪いと一ミリも非を認めない人間が居るだろう。
他人の罪を被る「自分が悪いゴッコ」はいつでも捨てられるから、軽々しく自分が悪いなんて言う。
悲劇のヒロインゴッコで遊んでいるだけだ。
聖書では、自分の十字架(罪)を背負いなさいと書いてあるから、他人の罪を背負っても意味がない。

9、大チャンス
普通の人は、息子がここまで、神に立ち帰るのを誘導してくれるチャンスなんて、存在しない。
普通の人は、一親等は無信者だから、神へ立ち帰る方向へ誘導どころか、地獄への道連れに誘導される。
普通、恩恵を受けることが、悪行を許される条件なんて、この世の地上では存在しないけど、神なら出来る。
なぜなら、神に立ち帰り天国へ入れるようになるという恩恵を受ければ、悪行が許されるのだから、これほどの恵みは神以外には存在しない。
これが悪に対して善で報いなさいと聖書に書いてある通りなのだろう。

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

マタイ福音書 5章44節45節 新共同訳

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

ルカ福音書 6章27節28節 新共同訳

それ以前に、悪行は既に許されているから、あとは反省して立ち帰るだけである。
相手の許しは既に得ているし、相手の許しが無くても、神に立ち帰れば天国へ入れる。
人間は許す人と許さない人が存在するけど、神は既に許しているし、あとは反省して立ち帰るだけだ。
相手の気持ちを変える必要はない。
自分の気持ちを変えるだけでいい。

10、パウロの職業差別
パウロの職業差別を前にも書いたけど、少し気になったことがある。

パウロは、イエス・キリストのように漁師・大工・徴税人・娼婦・軍人・外人・犯罪者に布教しに行ったとか、そういう話はないのだろうか。
パウロは、教会全体の世話になっている家の主人ガイオ、市の経理係エラストと兄弟のクアルト、アリストブロ家、ナルキソ家、法律家、医者など、社会的地位の高い人間なら経歴を言うけど、普通の職業の人は言わない。

上の投稿の文章から抜粋

気になった事とは、職業差別と身分差別は、昔はあまり区別されなかったのかという事だ。
〇〇家とかは、何らかの名家の事だ。
パウロが手紙の中で、自分の信者の職業や身分について教会に世話をお願いしていたけど、あまり区別している感じがしなかった。
昔は、職業と身分が密接につながっていたから、この辺りを区別する意味があまりないのだろうか。
イエス・キリストは、3年半の布教で普通の職業や身分の人々を信者にしていった。
パウロは、20年以上も活動していて、こういう普通の職業や身分の人々を信者にしていないのか。
イエス・キリストのように、ホームレスとかの普通の身分の人を信者にしなかったのだろうか。
多分、パウロは、身分の低い人間を避けるから、そういう人間に扮したクライシスアクターをローマ帝国は仕込めなかったのだろう。
高い地位の人間にスパイとして、パウロの下へ潜入させるから、人員の選定に苦労しただろうな。
高い地位なら、ワザワザそんなスパイ活動なんかしなくても、十分に稼げるから、よっぽどの見返りが無いと誰もやらないだろう。
それだけの我慢をして働いたのに、やっぱり都合が悪いから焚書にするなんてなったら、どれだけ激怒させるか判ったモノでは無いから、焚書ができなくなったのだろう。
自分が地位の高い人の立場になって考えてみれば判る。
特権階級の立場なのに、何十年も我慢して、パウロのような性悪の人物の下で、スパイであることを隠して、改宗してない宗教を広める活動をして、功績が国家の都合で焚書されて白紙になったら、どれだけ腹が立つか。
他の高官も、まともに国家の命令に従わなくなる。白紙にされたら、たまったモノではないからだ。

11、良きサマリア人の暗喩(あんゆ)
パウロは、サマリア人の例えの、他の2人に見立てられている。

善いサマリア人

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

ルカ福音書 10章30節35節 新共同訳

旧約でレビ人は祭事を司るエリートである。
パウロは、祭司やレビ人になりたがるから、「サマリア人の例え」の司祭やレビ人のようだと見立てられているのだろう。
祭司やレビ人の高い地位になりたがるパウロだから、サマリア人の例え話が言われたのだろう。
使徒ルカは、ルカ福音書と使徒言行録の代筆者だから、使徒言行録でパウロが出てきたのも、それが理由だろう。
サマリア人の例えは、ルカ福音書しか出てこない。
マタイやマルコやヨハネは書いてない。

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